MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

勉強ができるできない

親ならば、わが子のオツムの良し悪しが気になる。
できるのか、そんなにできないのか、絶望的なのか。
小学校の中くらい、遅くとも中学入学くらいには、成績の差と云うのが出てくる。
 
・机での科目は得意な子(国語算数・・という科目)
・机以外の科目が得意な子
・どれも大体できる子
・どれも大体できない子
・そもそも学校というのが合わない子
 
ボクの子どもの頃は、ガリ勉と運動バカというのは既にいた。
勉強さえできれば親は何も言わない、そういう家庭だった。
運動バカも同じく、勉強なんかできなくても良い、そういう方針の家庭だった。
 
ガリ勉が間違って、運動バカの家に行くと、親から説教されたりしていた。
『あんた・・大人になったら、学校での勉強なんか使わないんだよ!?』
ガリ勉は萎れていた。
ガリ勉は、基本負けず嫌いなのだ。
 
運動バカも、のこのことガリ勉の家に遊びに行こうもんなら、やんわりとやられた。
『学校の勉強ぐらいできないと、大人になって好きな仕事をできなくなるよ・・?』
運動バカは笑っていた。
運動バカは、基本勝ちたがりだから、運動さえ勝っていれば良いのだ。
 
 
娘の学校、息子の学校、その友達、その家庭・・・
ボクもそういう歳で、相応のオヤジであるが、感じることがある。
それは「極端ではだめ」になってきたことだ。
スマートさも求められてきているようだ。
ボクの頃より、親は子どもに、早い時期から多くを要求しているのかもしれない。
 
ガリ勉ではなくとも、勉強はマンベンなく出来ること。
英語も、全く・・ではダメ。
楽器もピアノくらいは譜面が読めないと格好悪い。
スポーツ音痴はいけない。
走る跳ぶ泳ぐ投げる打つ、バランス良く「上の方」であること。
運動できてもバカがついてはいけないこと。
 
親たちは子どもに、バランス良く過酷なスケジュールを提示し、それを遵守することを強いている。
スケジュールがこなせないと、出来ない!と叱責する。
子どもは、どうしたって親に褒めらたい(嫌われたくない)から、頑張ってしまう。
自分のためにやっている、なんて頭の片隅にしかない。
 
ボクは、ドが付くほど、娘に甘い。
勉強しろ、と言っていないどころか、今後言う気もない。
嫌なら学校なんかやめちまえ!ボクが教える!という乱暴さだ。
そこで、いつも妻と諍う。
 
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勉強ができないことと、頭の良し悪しは別だ、という意見もある。
ボクもそう思う。
勉強のできるできないは遺伝だが、頭の良し悪しは遺伝より本人次第である。
しかし・・と思う。
頭の良し悪し、記憶力や記憶の処理能力に頼らない言動が、今はどれほど必要だろう。
膨大な情報から、必要分を抽出して有効に活用するのが、現在の「良し悪し」である。
ガリ勉ぐらいでは追いつかないしスマートでもない。
運動ばかりでは、時代の方が足が速い。
 
勉強も運動も、ノルマの厳しかった団塊世代とそのJr。
二極化したJr第二世代。
人体実験されたゆとり世代
そして、団塊孫世代。
いつも、親は子供に期待し、子どもは反発しつつも応えようとしてきた。
子どもが自分の将来を測るには、いつも基準がなかった。
結局、学校での成績を担保にして社会と商談していくのが、一番スマートで効率的になってしまった。
 
 
冒頭の「どれも大体できない子」という存在は、ボクの世代には救いだった。
友人のユニットには、常に彼らが入っていて、意図してもいなかった。
そのくらい勉強や運動のことは、遊びには関係なかった。
 
今は、特殊学級とか通級とか云う分類で、彼らはひとくくりにされている。
子どもたちの交友の中に、見える線を引いているわけだ。
家庭もそのくくりに、仕方なく縛られていく。
「通級と言っても、全然普通ですから」と先生たちは言う。
普通なら、普通だけでいいではないか。
 
・・・色々と問題がありまして・・・・
 
やはり、出来る子の親達が、線引きを迫ってきたのか。
普通とは、個性を削いで、スマートにしたもの、それだけか。
 
妻が「家庭教育のHOW TO」みたいな本を愛読している。
差し当たり、躾とか教育は、読んでどうなるものでもない。
子どもは、親がどう考えて動くか、それだけを見ている。
 
書き忘れた。
「そもそも学校というのが合わない子」と分類した。
ボクの頃でも既にいた。多くはない。
学校には来るが、教室には来ない、あるいは違う教室だ。
行事以外は来ない子も何人か。
面白い子が多く、競って遊ぶ約束をした。
今は学習上の「病気」に分類されるらしい。
児童でも子どもでもなく、病人なわけだ。