MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

長官の辞任

長らく何も書いていなかった。

PCを開くどころか、テレビすら見ていなかった。

申し訳ない。

失礼無礼を承知で呟く。

元首相が凶弾にたおれた。

自衛隊と云う肩書だけが踊り狂っている。

自衛隊凄いな、と、言うしかない。

数年の勤務で、手製の武器で、命中させてしまった。

警察凄いな、と、言うしかない。

死角の、要人背後を取られてしまった。

そして、例外はどこまで並べても例外である。

この一事件だけを以って、自衛隊も警察も語れない。

例外の蓄積は、永遠に例外でしかない。

そして、仕方ない、とは片づけられない。

元首相であった方だ。

長官を、県警本部長の引責を、多くの人が、匿名の正義感から謗るであろう。

誰も責任を取らない、匿名カオナシ無責任よりは、まともと云うものだ。

元首相のご冥福を衷心よりご祈念申し上げます。

国葬だとも言われている。

それは、例外である。

何を警備し、何を守るのか。

名誉挽回と、臨んでほしくない。

ヒトの死は、権威だての儀式で追悼できない。

女装と社会勉強

明けまして・・

いや、開けました。である。

このブログに引っ越して、荷物も開けず、窓も開けず、

いかにコロナ云々だからと言って、萎縮するにも程があろうと云うものだ。

で、新年のご挨拶がてら、記事を書こうと思った次第である。

当然、下のネタであり、下品である。

ボクのブログを読む方は、見た目は小綺麗でも、大半は下品である。

だから、上品ぶってニヤニヤできる程度の、小綺麗な内容を心掛ける。

電車やバスなどの公共の場所で、「わぁ」とならない程度に収めていこうと思います。

 

仕事の関係で、たまに、上品で小綺麗でナイスな男性ミドルを見掛ける。

物腰は穏やかで、口調も丁寧で、服装も華美にならず、野暮に落ちず。

何より笑顔が妖艶なのである。

趣味は「無趣味です」などと仰る。

こういう人にボクは、ピンとくる。

おそらく秘密の趣味を持っている。

そして、おそらく女装である。

誹謗ではない。

白髪を斑に汚く伸ばさず、よく見ればディープパープルに染めているナイスなミドル。その趣味は女装であると、昔から相場が決まっている。

女装趣味においては、変身セットを自宅に置けない。

趣味を公言できない。したくない。

趣味友達とも、三密の会員制の場所での秘密のお茶会でしか会いたくない。

外で会えば、趣味とは完全に切り離されなければならない。

そのくらい、慎重で奥ゆかしく、且つ、面白おかしい貴族の趣味なのである。

 

ボクは、若い頃、社会勉強と称して、秘密の園を見て回った。

社会科見学と云うやつである。

ブティックホテルで、色んな連絡をしてみたり、してみなかったり。

呼んでびっくりしたり、呼ばれてびっくりしたり、である。

『お疲れ様でぇす!今日は出張ですかぁ?』

「出張がてら、社会科見学です・・」

『わぁ、良いですねぇ。宜しくお願いしますぅ。』

宜しかったり、逃げたくなったり。

それも社会勉強である。

そういう中で、格のあるホテルの一室が、年間契約されていたりする。

ナイスなミドルしか入れないのである。

古い表現でいえば、三高揃って当たり前、のイケメンが名刺代わりの入り口である。

入り口をくぐった秘密の園の、ちょっと高級な自分だけのクローゼット空間。

さなぎを脱ぎ捨てたミドルは、レディーに孵化するのである。

カルバンクラインのブリーフを、シヴァリスに着替える。

ブランドのストッキングを身に着ける。

可愛いレースが惜しみなく意匠されている。

洗練されたカッティングのワンピース。

色はない。光源が勝手に織りなす玉虫色。

装飾は少ない。キラキラフリフリなどしない。

そういう服が持つ酸っぱい印象は、オスだけが作った下品な幻想である。

レディは華美を好まない。

変身を終え、社交場に現れるオッサン・・・否、淑女。

『やだぁ!ヒロタン、可愛いぃ!!』

『何そのワンピ!素敵ぃ!私にも貸してよ!』

自然にオネエになる。

レディの向こうには、いつもオネエがいるからである。

『やだ!貸さない!だいたい、着られないでしょ?』

『ひどーい!』

しまむらの5Lでも着てなさいよ!』

『それじゃ、本当にババァになっちゃう(笑)』

などと言いながら、お互いに地毛をアレンジしつつ褒めあい貶しあう。

仕事抜きの社交辞令抜き。

性別を越え、人間かも怪しい生物が、本音の威嚇を交し合う。

ボクは、初心者はここからと勧められ、ストッキングだけを試した。

あぁ・・コレは危険だ。

コレだけなら、デニム穿いたら判らない・・・。

今なら、可愛い下着とか選べそうな気がする・・・。

パンストだけで寒くないのか、なんてもう思いません。

男がもっとパンストを穿けば、ホットパンツも女性だけのものではなくなる。

B’Zの歌い手だけが許される、あの乱暴に短く切ったデニムを、皆が楽しめる。

ブラのレースが下品だとか、もう思いません。

レースに美学があり、哲学があることを、もう疑いません。

 

よく見れば、髪をディープパープルに染めているナイスなミドル。

色味はない。光源が勝手に織りなす玉虫色の地毛。

それは、上品な女装を生かすための、控えめな主張なのである。

控えめすぎる普段の言動は、鮮やかに変身するための必要悪なのである。

 

これを読んだ女性陣は、気持ち悪いとお思いだろう。

さもあらん。

女性は、男の脳は、頭に入っていると思っている。

あれは見せ金だ。公の場で使われることはない。

普段の脳は、下半身の、あの、あたまでっかちの部分に詰め込まれている。

仕事中にもお構いなく、イケナイ発言をしてしまうのは、仕方ないのである。

男性が、男性たる部分の大きさに拘泥し続けるのは、仕方がないのである。

見えている大きな頭は、秘密の会合でしか使われない。

政治家が、料亭でしか大事な話をしないのは、そういう理由である。

見えている部分は、見えている間は、まず碌な使われ方をしない。

できないのである。

主要な部分は、社会勉強であり、社会科見学である。

社会科見学に出るときは、まず換気のために窓を開ける。

コロナとは関係なく、常に奥ゆかしい。

古来からひっそりと秘密裏に、静かに開けられる。

濁った常識を入れ換え、知らない価値観と云う世界へ繋ぐための窓。

ヘブンズドアでもある。

社会の窓」と言われている。

コロナと正義と

新型コロナの蔓延が続く。

初期は忍び足で鈍足。

蔓延に気付いてからは、爆走し、すぐに追い越される。

振り戻る間もなく、遠ざかる背中。

俊足でも、伸ばした手など届かなくなる。

あらゆる先手が後手後手になり、各業界の対応が結果論ばかりだと感じるようになる。

なぜもっと早く・・・と義憤に駆られる。

多くの情報、情報ばかりを食っては、消化不良で垂れ流し、食傷気味になり苛立つ。

医療機関での感染、行政の窮策。

義憤を感じ、義憤だと思い込む。

ウィルスにそのもの。

そういう正義が既に危うい。

 

コロナウィルスは人間にとっては害悪でしかない。

新型であるから、ワクチンを創っている。創らねばならない。

医療現場に限らず、多くの現場が、罹患者を救うため命を懸け、

かつ、防疫して自らを守ると云う、不可能な二律背反を使命とされている。

死ぬ気で生き延びろと云うことだ。

ボクなら御免こうむる。

逃げまっくて引きこもるだろう。

逃げずに対峙する多くの仕事人間がいる。

逃げてはならない。仕事だから。

憤っても仕方ない。生きるためだから。

そういう物言わぬ人間の総体が社会である。

だからこうして生活できているのだ。

 

罹患者を忌避し、あるいは排除することを正義だと思う阿呆がいるらしい。

マスクを着けない者を白眼視し、疑義ある機関をあげつらい、対応を糾弾する。

外で遊ぶ親子を通報し、サービス業に休業を迫り、自重を制度化しようとする。

おそらくは、物言わぬ人間の一部だ。

日常に埋没仕切っており、誰かの人生の脇役であるばかりか、

自分の人生でもセリフすらない。

こんなはずではない、と云うところに、舞台が現れる。

主役になりたいが、目立って叩かれるのも、下手だと謗られるのも嫌だ。

一段上がって、周囲を見渡す、そこまでの気概もない。

客席で寝たふりを決め込んでいると、舞台が荒れてくる。

客も何か言えるようだな。

誰かもっと色々と言ってくれないかな。

と半目を開けていると、どうやら野次っても良いようだと思う。

思い込む。

そして妙な行動に出る。

顔を隠して、石を投げだすのだ。

舞台に、役者に対してだ。

 

暴君やDV亭主に対しては、石だってやむを得ないこともある。

被害者は同じ舞台でやられっぱなしであるからだ。

それでさえ、話し合う機会ぐらいはくれてやれと思う。

正義は、公平であるべきだ。

 

ボクは、子供が風邪をひいたら、治って欲しいと思うし、

うつして、それで治るなら、仕方ないと思う。

親子は理屈ではないが、正気の沙汰でもない。

今、コロナに対峙している、物言わぬ人間の矜持は、親心に近い。

誰かがやるだろう、では間に合わないし、人任せにもしないのだ。

正義ではあろうが、正気の範囲を超えている。

対策にはあらゆる手を、罹患者には、最善の一手を、それだけを重ねる。

 

マスクで顔を隠して石を投げるのは阿呆だ。

 

独り言

お久しぶりです。

日々思うことは多いが、歳のせいで、脳がいい加減である。

記憶より忘却のスピードが勝るため、記事にするにも重さが足りない。

昨日の夕食で何を食べたのか思い出すたびに、ひとつずつ忘れていく。

今朝食べたもの、読んだもの、見たもの。

昨晩のアイスが美味しかったので取りに行ったら、冷凍庫にそんなアイスはなかった。

食べなかったものまでが、食べた記憶に残っている始末。

 

コロナの話題である。

ドラッグストアにマスクを買いに行ったが、棚がなかった。

棚そのものがそっくりなくなっていた。

菓子でも服でも、棚ごと買うのが夢だったが、マスクで先を越された。

そんなに大事だったのか。

中国の偉い人が謝罪したらしいから、世界的に大事であろう。

北海道にもアジア圏の観光客が多く、観光業が大打撃だと新聞で見た。

経済損失がすごく大きいらしい。

観光それ自体、他人様の懐を当てにした商売だから、仕方がない。

国内ではなく、国外の他人様であるから、余計に仕方がない。

春節と爆買いツアーだとか。

すべて聞いたこともない他人様の行事に端を発している。

ここは、恩返しをすべきではないかと思う。

中国に、マスク付きで格安ツアーを打てば良いと思う。

医薬関係者限定で、ワクチンの先物取引の権利を爆買いするのである。

マスクは1箱とか、大盤振る舞いで付ければ良い。

他人事ではない。

だからこそ、除菌対策で、払い除けるのではなく、かの国の立場も慮りたいのである。

新聞やテレビで騒げば騒ぐほど、核心はずれていき、デマが独り歩きする。

中国も韓国も、かつての日本の成長をなぞっているだけだ。

どこにも悪意はない。

どうにも不平不誹謗中傷ばかりを聞くことが多い。

子どもが成長して、文句を言っている近所のおじさんと同じだ。

おっきくなったなぁ、と目を細めていれば良いのである。

 

今日は大雪だった。

今年は記録的な小雪!と新聞で大見出しにした直後である。

ニュースを売る商売。

他人様を当てにした商売。

大抵は、売られてトントンである。

平成

平成が終わるらしい。
天皇陛下が退位されるようで、元号も変わるらしい。
やっと平成30年は西暦2018年、と換算できるようになったというのに。
昭和でさえ最近過ぎて判らないというのに。
平成が終わる。
まさか、自分が三元号を生きるとは思わなかった。
明治大正昭和を生きたヒトは、それだけで偉人だと思った。
戦争を生き抜いたすごいヒトだと思った。
今後の三元号は、大量生産だろうから、ありがたくはないだろう。
生き死にを、遠くから眺めていて、無関係だと思っていたら、あぁ自分も歳取ったわ、とか、そんなもの。
定期健診なんて面倒臭ぇなぁ、と思っていた、その頃が昭和とか平成一桁。
平成に慣れてきた頃から、毎年毎年どこかが引っ掛かる。
何の数値かわからないまま、BMIなるもののために食生活を改善し、
下がったと思ったら、中性脂肪って何だ?ガンマGDP?
敵の名前の読み方も判らないまま、言われるままに指導され、言われるままに二次検診。
MRIとかいう乱暴なアトラクションで散々にシェイクされ、ポリープだとか胃潰瘍だとか言われる。
病院なんて他人事だと思っていたら、いつの間にやら、ビッグイベントは病院に行くことぐらいしかない。
検査、処方、経過観察、再検査、入院、定期健診。
人間だと思っていたが、この歳になると、そうかモノなのか、と感じる。
定期整備、それ自体が難関だと思い知る。
車検に出した途端に、ボロクソにボロが見つかり、買う方が安いので廃車まっしぐら。
自分の体の替えはない。わが身可愛い。
廃車は嫌です、もう少しだませるように、何とかなりませんか。皆そう考える。
そりゃ病院は儲かるわけだ。
病院は年寄りしかいない、とネタにしていた。
ネタではなく、年寄りしか行かないのだ。
若者は、身体機能で治癒する。
新陳代謝とか言う、あの若いうちしか使えない特殊能力だ。
しっかり食べて、しっかり眠ると、翌朝にはHPが満タンになっている、あの機能。
年寄りは、気合を入れても、応える能力がない。細胞に若さとやる気がない。
病院で、補助という名のメインの薬を飲み、じっくり治すしかなくなる。
ボクぐらいになると、もういけない。
若いうちの魔法が何一つ使えなくなる。
縁起をかついでカツを食べても、まず油物を消化しない。
腹痛なら可愛いもの。食べたその晩には、一足飛びに下痢になる。
少しばかりに荷物に、エイと気合を入れれば、腰や膝がギクッとなる。
判りにくいところが痛くなるので、肉体労働は本当に慎重になる。
筋肉痛には潜伏期間ができる。
3日後とかに、意識したことがないところが痛くなる。
脇と脇腹の間とか、肩甲骨のちょっと下とか、湿布も貼れない位置。
忘れた頃に効いてくる、ある種の呪いである。
油物を避けて、蕎麦を食べても、きざみ海苔でむせて、喉に張り付いて、死にそうになる。
同じくむせる理由で、ティラミスを敬遠するようになり、小ぶりな大福とか和ものに移行する。
疲れたからと、早めに休むと、その日のうちにトイレに起きる。
その次に四時に目覚めて、そのまま眠れない。
仕方ないから、新聞でも読もうとするが、まだ朝刊すら来ていない。
・・・
そんなことを、ボクより先の昭和の先輩から聞かされ、腹の底から笑ったものだ。
平成生まれの皆様。
笑うことなかれ。
ボクと同じように。
あなたもそうなる。
一世代前は、昔のヒトとなるのだ。
常に年老いていくのだ。
一年を考える前に、振り返る前に、今日を楽しもう。

スマホ

スマホをよく見る。
補足。
スマホをしているヒトをよく見る。
朝の通勤、夜の帰宅、昼休み、外出中、その道中。
見ていない人がいないぐらい、よく見る。
同じような画面を見ている。
なんか旨いもののサイト。
なんか可愛いもののサイト。
なんか暇つぶしのミニゲーム
なんかメールみたいな。
メールみたいなのは、ラインとかいうらしい。
最近知った。
書くと即座に公開することができて、即座に反応が確認できるらしい。
すごく恐ろしいじゃないか。
悩んで書いたものでも、考えずに書いたものでも、同じに反応されるのかぁ。
ダメ出しも、レスポンスタイム・・ゼロかぁ。
恐ろしい。

「付き合ってください!」
『無理!』

「今度の打ち合わせの後に行く店なんだけどさ。」
『お前とは行きたくない。』

「この前、○○で会ったんだけど・・」
『誰!?』
「まだ名乗ってないけど、わかって・・」
『うざい!』

子供の頃、遊びのバレーボールをしていて、サーブをいきなりアタックされると腹が立った。
そりゃないだろぉ・・、悪い悪いごめんなぁ、なんて、皆でブーブー言って、やり直していた。

ラインとかそういうのは、サーブアタックでも、仕切り直しはないんだろう。
常識的な範囲とか、暗黙の了解とか、まぁまぁこの辺でとか、そういう面倒なものがない。
いかにもスマートな道具だと思う。

ボクは褒められることが少ない。
頭の良くない飼い犬より、少ない。
褒められる免疫がないので、のぼせて汗が出て、尻から変な汁が出る。
ラインでは、即座に褒めてくれるらしい。
大した芸もしていないのに、凄く褒められるらしい。
うらやましい。
恐ろしい。

褒められるのを待つ人。
褒めてくれる人を待つ人。
褒められること自体を探す人。
皆、忙しいんだなぁ。

終戦記念日

ボクはキレイに別れられない性質である。
妻はその辺りキレイである。
男前に切り替えて生きてきている。
目の前に向かてくるハードルだけを見据えている。
歩くことも多いが、よそ見することはまずない。
過去の方、背中の方に遠ざかったハードルを振り向くことは一切ない。
ボクはその辺は、てんでダメだ。
ハードルを越えたにしても倒したにしても、すぐに振り返る。
あの超え方はなかったとか、あの倒し方は汚いわとか、まぁ良く振り返る。
振り返って褒めることも少ない。
いつも悲観的なのだ。
妻が好き。大好き。
それでいいじゃないか、と思った次の瞬間に、どこのどの辺の瞬間とくらべて大好きかなんて考える。
絶対化できていなのだ。
自分に自信がないのだ。
昔の、大昔の、もっと前の交際相手が、急に思い出されては、独りで罪悪感に苛まれたりする。
今この時間を生きている、その幸福な事実で満たされないことがある。
全くもって阿呆である。

妻は、ボクと付き合いだしたときに、すぐに一生一緒にいるだろう、と言い切った。
聞いてもいないのに、前の彼氏、その前の彼氏と、話出した。
話には、脚色も編訳もなく、いくつかの「越えたハードル」についての報告であった。
妻の実家に出向いたとき、仏壇の遺影に向かって、『アタシこのヒトと結婚するからヨロシク』と手を合わせた。
実の両親より世話になった近親なのだと言う。
ボクも手を合わせ、「この人についていきます」と思った。
交際の当初からその調子なのだ。
ひとつ終えてから次に進む。
背中の方にあるのは終了案件だけであり、全く振り返る必要がない。
参照や引用する必要が、過去には全くないのだ。
子育ての最中である今は、並行する案件が多いから、優先順位は難しいだろうが、変わらない。
終わったものは、もう考えない。
先のことは、そのとき考える。

終戦とか戦後とか戦後○年とか聞くと、不謹慎ながら、妻のあの仏壇姿が浮かぶようになった。
・・・
戦争は終わっているのだ、が。
復興とか賠償とか、いわゆる終戦の処理を、きっちり行っていれば、今は今以外ではないのだ。
面倒くさそうだからと、忙しいからと、先延ばしにし、なおざりおざなりを重ねた結果が「今」なのだ。
謝罪はしたという。賠償も補償もしたという。
それは、自分だけではなく、相手をも考えた上でのことであったのか。
どこかで軽視し無視し放置した色々が、昇天も腐敗もできず、今も土のなかで呻いているのではないか。
死して語れない何かが誰かが、声にならない声で訴えているのではないか。
キレイに別れられなかったボクには、どうしても怖いのだ。
戦争は終わった、が。
今後、また戦争が起こった時、それは「今」の世代の責任ではじめた、そう言えるのか。
過去にキレイに別れられなかった何かによって、「今ではない」ものも加担してくるのか。
戦争放棄、核放棄、と言い切ってみても、どうもその先にキレイな光が見えない気がする。
クニや政府が、どんなに強調しても、未来に約束しきれていない気がする。
背中の方から沢山のハードルが近づいてくる気がする。
気がする、のは、後ろめたいからだ。
歴史で、戦争への助走や跳躍を学び、結果も知っているのに、現在を語れない。
終わっていない、と詰問されれば、怯んでしまう。

15日の夜、ニュースを見ていたら、戦没者への献花の後に、テレビには長い沈黙があった。
終戦記念日だった。
昼間に黙とうする時間がないヒト向けの計らいである。
ボクは慌てて黙とうした。