MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

終戦記念日

ボクはキレイに別れられない性質である。
妻はその辺りキレイである。
男前に切り替えて生きてきている。
目の前に向かてくるハードルだけを見据えている。
歩くことも多いが、よそ見することはまずない。
過去の方、背中の方に遠ざかったハードルを振り向くことは一切ない。
ボクはその辺は、てんでダメだ。
ハードルを越えたにしても倒したにしても、すぐに振り返る。
あの超え方はなかったとか、あの倒し方は汚いわとか、まぁ良く振り返る。
振り返って褒めることも少ない。
いつも悲観的なのだ。
妻が好き。大好き。
それでいいじゃないか、と思った次の瞬間に、どこのどの辺の瞬間とくらべて大好きかなんて考える。
絶対化できていなのだ。
自分に自信がないのだ。
昔の、大昔の、もっと前の交際相手が、急に思い出されては、独りで罪悪感に苛まれたりする。
今この時間を生きている、その幸福な事実で満たされないことがある。
全くもって阿呆である。

妻は、ボクと付き合いだしたときに、すぐに一生一緒にいるだろう、と言い切った。
聞いてもいないのに、前の彼氏、その前の彼氏と、話出した。
話には、脚色も編訳もなく、いくつかの「越えたハードル」についての報告であった。
妻の実家に出向いたとき、仏壇の遺影に向かって、『アタシこのヒトと結婚するからヨロシク』と手を合わせた。
実の両親より世話になった近親なのだと言う。
ボクも手を合わせ、「この人についていきます」と思った。
交際の当初からその調子なのだ。
ひとつ終えてから次に進む。
背中の方にあるのは終了案件だけであり、全く振り返る必要がない。
参照や引用する必要が、過去には全くないのだ。
子育ての最中である今は、並行する案件が多いから、優先順位は難しいだろうが、変わらない。
終わったものは、もう考えない。
先のことは、そのとき考える。

終戦とか戦後とか戦後○年とか聞くと、不謹慎ながら、妻のあの仏壇姿が浮かぶようになった。
・・・
戦争は終わっているのだ、が。
復興とか賠償とか、いわゆる終戦の処理を、きっちり行っていれば、今は今以外ではないのだ。
面倒くさそうだからと、忙しいからと、先延ばしにし、なおざりおざなりを重ねた結果が「今」なのだ。
謝罪はしたという。賠償も補償もしたという。
それは、自分だけではなく、相手をも考えた上でのことであったのか。
どこかで軽視し無視し放置した色々が、昇天も腐敗もできず、今も土のなかで呻いているのではないか。
死して語れない何かが誰かが、声にならない声で訴えているのではないか。
キレイに別れられなかったボクには、どうしても怖いのだ。
戦争は終わった、が。
今後、また戦争が起こった時、それは「今」の世代の責任ではじめた、そう言えるのか。
過去にキレイに別れられなかった何かによって、「今ではない」ものも加担してくるのか。
戦争放棄、核放棄、と言い切ってみても、どうもその先にキレイな光が見えない気がする。
クニや政府が、どんなに強調しても、未来に約束しきれていない気がする。
背中の方から沢山のハードルが近づいてくる気がする。
気がする、のは、後ろめたいからだ。
歴史で、戦争への助走や跳躍を学び、結果も知っているのに、現在を語れない。
終わっていない、と詰問されれば、怯んでしまう。

15日の夜、ニュースを見ていたら、戦没者への献花の後に、テレビには長い沈黙があった。
終戦記念日だった。
昼間に黙とうする時間がないヒト向けの計らいである。
ボクは慌てて黙とうした。