MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

太宰治は人間失格か

人間失格は愛蔵書のひとつである。
太宰自身の自伝とも言われているから、その内容は暗い。
情死とか自殺未遂ばかりがその作者の系譜にしるされるが、実際はどうか。
実物が今手元にないから、引用もなんとも不正確(かなり適当)であはるが・・
 
「ただ白紙一枚 そうして笑っている(自身の)写真。笑っているのだが生の感じがない」
「そこには血の重さというか、生きる渋さと云うものが一切ない・・・全てが造り物なのである」
 
「果たして人間とはこうも楽天的に無責任に他人に言葉を発していいものか」
 
「世間とは何でしょう、個人の複数でしょうか「世間は許さない」というがつまりは世間とは個人ではないのか。
私がオレが、貴様を許さない、そういうことだと思う。世間という説得力はあるが良く素性の知れないものに責任を嫁して、その安穏と静謐の中で、個人を追い詰める卑怯なものが「世間」ではないのか」
 
「私は幸福からも逃げるのです。不幸を楽しむというのではありませんが、幸福とはつまりは空虚なものであり貧富の間では分かち合えないものであります。不幸の中のドロ臭い、あがく人間の姿にほっとするのだ」
 
・・・太宰は社会やその構成する個人を斜に構えてニヒリストを気取っていたのではない。
人間を愛し、そして裏切られ、その責を自分に課したのだ。
その生き方や作風に悲惨さ陰惨さがあっても、どこまでも救いがないとは思わない。
ときどきのユーモアやお道化、それは秀逸である。
ただ、そのユーモアが妙に目に付いてしまうのは、根幹にある人間への、いや自分への不信である。
虚栄を張り、他人をどこかで蔑み、そしてソレがばれやしないかといつもオドオドしている。
全てのものが自分を関係なく流れていく気がして、そしてそれを眺められるほど超然とできない自分へのもどかしさ。
自分という小ささに歯噛みし、かといって死ぬことは怖く絶望すらできない。
芳香より腐臭に安心し、栄誉に困惑し、鋭利な指摘に貫かれることは嫌いだがその傷が愛しいのである。
 
太宰はウツ人であることは間違いないが、そこには個人の違いがある。
太宰だって、とボクは同じことは考えられないのである。
ウツ人としてどこまでも生きていく自信はある。
ただ「世間」が怖いくせに世間に抗い、世間に裁かれるのを待っている気はする。
自分で暗い道のなかを走り出す勇気がないくせに、他人にはそういう道もあると偉そうに考えたりする。
傲慢。
 
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本題は「なぜここでコメントに対して自分の言葉・・「そうですね」すら返さないのか」ということである。
怖いのである。
自分が傷つくのが怖いのだ。
いつも先の先まで「最悪」を考えているくせに、「考えを越えた真実のひとこと」が怖いのだ。
最悪は自分の手の中で温もりをもって、コロコロと暖められるものであって、
決して他人に強制されてはかなわない、いや、怖いのだ。
自分以外に絶望を突きつけられるのが怖いのだ。
コメントは全て読んで、何度も反芻して、さて返事をしようと思うのだが、手が止まって震える。
ウツ人の同志達が、限界を超えて血を越えたところで血を流して、
半ば死んだまま走り続けていることが、不安で、何もできなくて、それでも何かしたいのである。
傲慢。
加えて偽善。
 
・・・ですね?と優しい青々とした言の葉を渡してくれる多くのブログの友人。
ボクはその葉を手にとって握って温もりとは!と思い感激する。
しかし、次の瞬間、汚いドブ川にその葉を、あろうことか笹船のように流してしまうのである。
心で読んでいない。
多くの助けを薄笑いで断って強がっている。
 
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太宰は、失格に近いが人間である。
ボクは人間ですらない気がする。
暖かいコメントをもらって、ありがとうのひとことが、なぜ言えないのか。
きっとどこかで、自分はいつかここに何も書かなくなって、高みに行こうと願っているのだ。
きっとどこかで、多くの同志を「カミサマ」よろしくふるいにかけて裁定しようとしているのだ。
ボクは身体を傷つけない。
理由はもう救いようがない。
切ったら血ではなくヘドロのようなものが悪臭を放って流れてきそうな気がするのだ。
そして、それを見て「あぁやっぱり心地良い」などと強がるのだ。
 
眠れない、何もできない、ないないづくしを他人のせいばかりにする・・。
そして反論されないことを自分の特権みたいに振りかざして、ときには試し斬りすらしたくなるのだ。
 
今も太宰を読んでいる。
自分みたいだ、とは思わない。
ボクはその辺のウツ人である。
生きていくのに理由も理屈も何もない。