MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

DOLLについてのお知らせ

お知らせ、とは良い言葉だ。
何も内容がなくても「何もない報告」ということができる。
上司に『どうだった?』と訊かれ「特に何も・・」というときと同じ。
怒るのが趣味のヒトだと
『何もない?どういう具合に何もないのだ?』
『何もない、ということ自体が一つの報告だろうが!』
となる。
こういうのは屁理屈でいちゃもんであり、因縁をつけると云う。
ボクは、嫌いじゃない。
ゼロもひとつの表現である。
そういうジャンルもないと、芸術というのは殆ど死滅する。
無論、ヲタ萌えも、粒子研究も、独裁政治も、芸術である。
何らかの衝動・思想・欲求があり、それを表現するときにソフトと云うことが出てくる。
PCがハードで、ゲームがソフト、というソフトでは乱暴な気がする。
 
 
ボクの場合、まず思想があり物語に乗せていく。
が、書くには描写の技がなく、伝達手段を大して知らない。
その一つが人形であっただけだろう。
もっときちんと言えば、まずハードがあること。
出来上がった物語であり、良い情景があり、人形がある。
人形を創ること・物語・物語が伝えたいコト
こういうのが揃って、はじめてソフトになるのではないか。
何らの思想も無く、技術だけで追求していくには限界がある。
絵が下手だとか、ストーリーが陳腐だとか言われる漫画が良い例である。
まず「何をしたいのか」。それがないとヒトは動けない。
動いてはならないのに、功名心で動くから、いけない。
絵に個性が無くても、伝えたい思想がしっかりしていれば読者は納得する。
伝えたいことは小さくても良い。服へのこだわりとか、装飾への一家言とか。
服へのこだわり・努力しての技術・伝えたたいこと。
これらソフトが揃って、初めて、服の製作となる。
できた服はハードではない。服が生み出す空気が思想であり、ハードなのである。
服を作ったから、複製されたくないから、素材に型紙に版権を取る・・・これはおかしい。
金が欲しい、という思想だけになる。
 
逆の例はいくつもある。
名を売りたい・顔が悪いし特段の技術もないが努力しようと思う・金は少しでも欲しい
こういうのが揃うと、一応ハードだけはできあがってしまう。
では、どうしようか・・小説でも書くか・彫刻でも創るか・何か変なものでも集めてみるか。
他人と同列に置かれたくない自尊心から、繁華街を着飾ってうろついてみる。
歌ったり、創ったりして投稿してみる。
逆だ。逆。
(歌で作品で表現したいものがあれば賛成だが、上手いと思うからどうぞ?では犬も喰わない)
 
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相当に「むかつく」ことを書いている。
ボク自身に辟易している。
ボクにも功名心があり、金については、今ならなんでもやる覚悟がある。
それでも、まぁまぁそう尖らずに、みんなで楽しくやりましょう、と云う臆病さがある。
一足先に出て、叩かれるのは、職業芸術家に任せて、ボクらは楽しくやりましょう。
ホンネである。
 
だから、今いじっている人形は、完成すら目指してない。
皆のスキルを大いに借りたいと思っている。
ありもしない完成を、言い換えれば「無限パターンの完成」を目指せる。
そう信じている。
ヒトには得手不得手があり、好き嫌いがある。
では、球体関節は芸術に任せるのか、と云えばNO。
人形は「怖い話の表紙のアレ」で良いのか、と云えばNO。
もっと人形(に限らずフィギュアとか雑貨とか)は身近でいいのだ。
子どもがまず遊ぶのが、球体関節。いいじゃないか。
そして自分でもいじって、別のもっと良いものを提示する。
それを、その友人や親戚、子どもが譲り受けて、またいじっていく。
そういう伝承・・違うな・・ただのモノではないモノが無限にリレーされていく。
そういうのが、ボクの思想でありソフトであるのだ。
 
人形は原型は創りますから、後は任せます・・そういう幼稚であり成熟した方法である。
コレはビジネスとしても大いに流行っているが、そういうのは好きじゃない。
好きじゃない、と云うのもソフトである。
差し当たり、折り紙の折り方のような、掛け値なしで雑な「お人形のつくりかた」は作っているところ。
(無論、悪筆の手書きにしてやろうかと思っている)
年内には「運動会のお知らせ」みたいなのができるので、
欲しいヒトはコピー代くらいで送ります。
欲しい方がいれば「強敵」と書いてトモと呼びます。
 
アクセ類は既に、ボクが勝手に白羽を立てたヒトがいる。
ネット環境でも「考え」と云う意味でのソフトはある。
それも、ボクが勝手に白羽を立てたヒトがいる。
(ブログの訪問者の中である)
 
人形は芸術ではない。
身近にある、悪意であり善意であり、願いであり呪いである。
 
芸術だから高価になる。
高価だから飾っておく。
人間とは違うからそれらしいところに飾る。
普通のフィギュアとは違うから別に飾る。
神だから崇拝する。
天使だから敬愛する。
逆だ。逆。
 
人形はTシャツと同じだ。
そこに何を書くか、どう着るかは個人の自由であるべきだ。
ベルメールを例に出して正当な、球体関節人形で反論する方もたまにあるが、言わせてもらう。
 
ベルメールならば、静止した人形は否定するだろう」
 
進化とは、一人が10年で成し得るほど楽じゃない。
ボクは楽なほうがいい。
だから、人形を、人形と云うソフトを共有して、何ができるかを楽しもうと思う。
電気工学や建築、無論写真もソフトになりハードに成り得る。
このブログの訪問者の中にも、握手は無理でも、話すくらいなら、と云うヒトもいるだろう。
例えば、ガンプラができれば、人形には最高の技術だと思うのだ。
例えば、手芸や料理が趣味なら、そのまま感性は生きると思うのだ。
あ、廃墟モノを得意にしているヒトもいたなぁ・・・。
(でもボクは人形と退廃や耽美は結びつかないと思う。退廃らは生の向こうにあるからだ。)
 
ボクは、人形を創る・衣装を作る(主に布一枚)・ブログをしている。
ここで何かできないかな?
そこで生まれるのが「人形○○計画」である。
「補完」とかは入れない。パクリと云う名のオマージュだからだ。
逆だ。逆。
補完されるべくは人間であるからだ。