締め
ご無沙汰。
どこもかしこも「一年を締めくくるご挨拶」で溢れている。
こういうのが性に合わない。
嫌いではない。けじめは大切だ。
ただ、何を締めるのか。
締めた後に、何を始めるのか。
何か終わらないと始まらないのか。
物事の流れは常に流転で途切れない。
株や商いも、締めと云うけじめこそあれ、取引は常に動いている。
流れというのは、血も金も命も同じ。
生きていることもまた同じ。
それと見て判る分かれ目や継ぎ目、順番はない。
生を死の始まりと見るか
生死を螺旋・輪廻と見るかは、考え方ひとつだ。
考え方ひとつで、そのときの気分一つで、過去も未来も変わる。
この時期は、反省したり検証したりする風潮がある。
この時期にならないとやらないのか。
遅きに余る。
眠る前に省みろ。
機を逸せずにただせ。
朝目が覚めたらまた始まり。
昨日の続きなどない。
ただの一度もない。
ボクは後悔をしない。そういう考えがない。
振り返って見るほど、歩みは早くないし、遺した足跡もない。
振り返って戻れるわけではないし、戻りたくもないのだ。
ウツ人は、振り返ってばかりが人生。
後悔と懺悔を煮詰めた鍋の中で、毎日を喘いでいる。
一年中、自身の存在を嘆き否定する。
そして、死は甘く怖い。
締めの発想など、入り込む錐の隙もないのだ。
締めというのは嫌だ。
締めと諦めは、自体が似ている。
それもボクの鼻につく。