もうクリスマスはPTSDな話ではないかな?
クリスマスイブである。
かつてこの書庫に書いた?が、クリスチャンの彼女がいた。
彼女はこの時期、信者の中でも上の立場にいたらしく
ボランティアや寄付金やいろんなことでボクと会う時間はほとんどなかった。
初恋にほだされて自分のことしか考えていなかったボクは、
クリスマスをひどい行事だと思い呪ってすらいた。
彼女はこの時期、信者の中でも上の立場にいたらしく
ボランティアや寄付金やいろんなことでボクと会う時間はほとんどなかった。
初恋にほだされて自分のことしか考えていなかったボクは、
クリスマスをひどい行事だと思い呪ってすらいた。
そんな彼女を、神は試したのか呼んだのか・・?
年を越さずに事故で16歳で死んだ。
年を越さずに事故で16歳で死んだ。
ボクはつい最近まで「教会」やら「神」というモノを毛嫌いしていた。
ただ最近は、会社帰り、近所の教会の前を何となく歩いて帰るのが習慣。
自分でも良く判らないが、何か祈ってみたくなる。
自分でも良く判らないが、何か祈ってみたくなる。
復職はじめは出勤もウツでひどかったから
とか
とか、余り穏やかじゃないことを祈っていた。
が、だんだん「今日も何とか乗り切ったよ・・」とか
「戦争をなくすのは難しいけど、1時間だけでも戦火が消えますように・・」
とか、らしくないことを思い祈り出した。
「戦争をなくすのは難しいけど、1時間だけでも戦火が消えますように・・」
とか、らしくないことを思い祈り出した。
それが毎日ともなると、もう祈ることもなくなり、
まぁ「教会」の存在自体が、みんなの、誰かの、何かしらの支えなんだろうと、
大したことは祈らなくなった。
まぁ「教会」の存在自体が、みんなの、誰かの、何かしらの支えなんだろうと、
大したことは祈らなくなった。
「まぁ何だな?自分が自分がってことじゃ周りも迷惑だろうねぇ?」
とか、
「好きで仕事行ってる訳じゃないけど、あるわけマシだね?」
とか
やけになれなれしい祈り方になった。
とか、
「好きで仕事行ってる訳じゃないけど、あるわけマシだね?」
とか
やけになれなれしい祈り方になった。
最近は・・
とか、すっかり自分が勘定に入らなくなってしまい、
「この教会つぶれんじゃねーのか?」とか不敬極まるようにもなってきた。
「この教会つぶれんじゃねーのか?」とか不敬極まるようにもなってきた。
ただ、この時期になると、やっぱり彼女のことが思い出される。
と、ちっぽけな教会相手にすごんでみせたりする。
一方で妻子の調子が悪かったりすると、
クリスマスかぁ・・。
何も祈ることなくなったら、行き着くところ、あちこちで見るが、
というのも、納得。
要は「祈ることもないから、どうでもいいけど、どうでもよくないからこんなとこで妥協」
ってことなのかな?
要は「祈ることもないから、どうでもいいけど、どうでもよくないからこんなとこで妥協」
ってことなのかな?
クリスチャンの方、ごめんなさい。
ボクは非常識なもんで・・。
ボクは非常識なもんで・・。
ガネーシャは「ゾウ」である。「像」とかけたオヤジなダジャレで締める・・・。