MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

当たり前!という狂気

もう新年らしい。
声が出ない。

「おーい!生きてますかぁ!?」


コレを挨拶としたい。
年始の挨拶ほど、特にめでたくはないし、年末年始はただの週末であった。
間違っても「元気ですか!」とは言わない。
元気ならココで記事など書いていないし、
「元気ですか!」と聞くのは元気がありすぎる人か、猪木だけである。

ボクは年末年始をいつもの通り、当たり前に、起きて食べて除雪して眠った。


コレは当たり前でなく、凄いことではないか?


朝(午前中を含む)起きると言う事は、ウツ人にとって困難であり、
だからこそウツ人の生活リズムは日に日にずれていく。
ずれていくのが当たり前になり、気にしなくなり、
また布団で過ごしてしまったという自己嫌悪だけが残る。

起きてすぐに食べるというのも困難で、ウツの波がきついときなど水だけ飲んでまた眠るしかない。
食べることはウツ人にとって当たり前ではない。 
だから栄養失調になったり、無理に食べて逆に過多になる。
体調がバラバラであるのだから、体重もメチャクチャなグラフを描く。
ここでも自己嫌悪だけが肥大化し、過激な体重調整に向かいがちである。

除雪は北海道や東北特有であるが、雪がなければボクなど外にも出ないと思う。
雪押し=ダンプ(ショベルカーのショベル部分に持ち手が付いたもの)での除雪は結構きつい。
一回の積載量は20キロぐらいと思っていたが、
20キロの娘を乗せたとき、とても軽いと感じたので50キロ以上はありそうだ。

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スポーツジムで嬉しそうに汗をかいている光景を見るが、除雪していないのであろうか?
思うに、除雪不要のマンション組か、動いていないと死んでしまうという怖い病気のヒトであろう。
運動など、ウツ人にとっては健康的でもリフレッシュでもない。 ただ命を縮めるだけであると思う。
「アレとコレ、ソレもやろう」と思って、半分もできれば満点である。
全部できたら、動きすぎと考えて間違いない。


『そのぐらいできて当たり前だぞ!?』



と言うヒトは、自分を当たり前の基準にしているか、自分を棚に上げているだけである。

世の中に溢れる「当たり前」を当然に受け取っていたら、ウツ人じゃなくても潰れるし狂う。
「当たり前」という「常識」は、いつもせまい社会や地域で創られて、ただの多数決で残ってきた。
何か疑問に感じて尋ねたとき、『ソレが当たり前だからね』という答えなら納得してはならない。


「生きる」ことでウツ人は十分!



「当たり前のこと」はない!!



全ては「小さな奇蹟」の積み重ねである!



ウツになり、直後に、または少し良くなって・・多くのヒトが自死を選んでしまう。
ソレを当たり前とは言わせない。
医学的な統計的な結果として、多数決での結論であろうが、ボクは納得しない。

長くウツを患い割り切って生活していると、ウツじゃないんじゃないの?と聞くヒト。
ソレは「健康な一般人に近い生活から導き出した当たり前」という型に、はめ込んだ暴言に近い。
更には、ウツでも生きていて楽しいの?という無辜な疑問。
ボクは納得しない。 ウツ人をただの個性にはできないであろうが、幸せと無縁な存在ではない。 
もしウツ人でなければ、これほど毎日が新鮮ではなかったし一日を大事にしなかったであろう。
もしウツ人でなければ、これほど生きることに重さと深さを感じなかったであろう。

政治・経済・宗教・教育・・云々・・そこには未だに「生きるために」という根幹がない。
哲学からも「より良く器用に生きるために」という悪臭が漂っている。
福祉に至っては「生きる」を金額に換算し、「生かさず殺さず」なんてことを未だにやっている。

知識を教えてくれる本ですら・・書ききれないから下に列挙するが・・

「今よりもっとキレイな肌になるためには!」
「働くよりもっとかんたんに儲けるために!」
「○○ダイエットだけでもう十分!」
「20年吸ってきたがコレで禁煙できた!」
「賢い節約、貯金の仕方 決定版!」
「絶対に片付く超収納法!」

当たり前に目にする、聞いたことのあるこれら・・。


「生きるために」という前提は当たり前すぎて省略されている


ウツ人へのどんな「HOW TO本」を読んでも、ソレは
「より良く生きるために・ウツと上手に付き合うために」
という、ありえない受け入れがたい押し付けであることが多い。
上手につきあえるウツはないし、より良く生きようなどと言う傲慢さはウツ人にはない。
元来、器用な世渡り上手、というものとは無縁のウツ人である。
当たり前にできること、は、当たり前に出来ないことなのである。



「当たり前」こそ疑え!



『そんなこと出来て当たり前だぞ!?』と仕事やバイトで言われても疑え!
言っている上司や先輩は、きっと、新人時代の自分を忘れているか、性格が悪いだけだ。

『このテストで60点は当たり前だぞ!?』と先生や講師に言われても疑え!
教え方を学んでこなかったことの責任転嫁なだけであり、多分常識力はあなたより低い。

『おかしいな?そろそろ効き目が出て当たり前なんだけど?』と言われることは多い。
言った医師や薬剤師を疑え!
医師や医学書はマニュアル化されているだけに、個々の患者と向き合う勇気がないだけだ。
薬効が出ないのは診断ミスか処方ミスしかないのであり『おかしい』のはそっちである。


私事である。
息子が高熱を出して、すったもんだしていたらボクの誕生日はとうに終っていた。
何となく過ぎて行く誕生日・・これは当たり前すぎる当たり前である。



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オーギュスト=ルノワールの描く裸婦は、当たり前に肉感的である。
コレは描くモデルに関わらず、ルノワールの常識としての美意識を通した結果である。

ただのデブじゃねーか・・・

そうである。
ただのデブか、お腹のお肉が気になります、である。
コレを美人にしているのは、ルノワールという知名度と独特の筆致である。
日本でも、江戸時代くらいの美人画は、ただのデブなキツネ目の女である。
コレも美人にしているのは、当時の価値観と、現代に至る芸術的評価である。

美男美女や標準体型の基準。
そんなもの、わずか10年でどんどん変わるのだ。
松田聖子のデビュー当時など、今なら登録も出来ないデリヘル嬢だと思う。

今だから、ウツだろう・・と当たり前に医学的に区分されているが、
10年前、20年前、50年前ならどうであったか?
きっと当時の同じ病の「ウツ人」たちは、
何となく、苦しみながらもがきながら、休めずに、倒れたか、生きぬいたと思う。
今は・・少しでも恵まれているはずだ。
ウツで苦しいのは当たり前ではないが、
苦しんでいるのをウツだけに押し付けたくはない。


今年も生き抜くぞぉ!




ひとり、声も出ないのに吼えてみる。


P・S
期待した初夢は・・
冷えたカレーとごはんをレンジで温めて食べる・・という些細な日常であった。
更に、温めたカレーが意外に冷たくて、温めなおしたら今度は熱すぎた、という平凡ぶりであった。

次の日カレーが食べたくてコンビニに行ったが「カレーまん」だけなかった。
今日「カレードーナツ」を買って来た。 楽しみである。