MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

ボクの咽頭ガンと父さんの仕事

今や各都道府県に「がんセンター」なるものがある。
人類の最後の試練であり、医学の目標でもある「がん」を研究治療する最先端である。
ウツ人よりも「ガンさま」はもっともっと苦しんでいるのである。
未定の死・予定の死・確定の死・・いずれにせよ「死」を自覚しないと治療の始まらない病気である。
 
ボクが咽頭ガンと診断されたのが昨年の11月ごろ。
ずっと喉に違和感があって、?・・と思っていたが、痛みも増して結構大変だった。
こういうときはボクに限らずヒトには「危機的な違和感」と「嫌な予感」があって、だから、こっそり自費受診した。
後で妻に何か請求書で聞かれたらウソなんかつけないからである。
 
 
 
 
 
咽頭に腫瘍・・悪性だね・・なんで、もっと早く来ないの?』
 
 
黙るしかなかった。
ガンさまには申し訳ないが、
ウツの激流の中では「喉の痛み」なんかインフルエンザぐらいの認識しかない。
 
急に「ちち・夫・息子・孫・社会人・ウツ人」・・色んなボクが回りだしたけど着地点がなかった。
 
「手術すれば・・その、治すまでいつまでかかりますか・・?」
 
『一緒に頑張ろう・・3年もったヒトもいるからね』
 
 
「一緒にゆっくり頑張ろう」はがん宣告に限らず、どの病気でも共通の「見込み薄」である。
とにかく細胞培養の結果を何度も繰り返さなくても、MRIで明白であったらしい。
脱力して、とにかくヘラヘラとニヤニヤと、表現のつかない渇い笑顔で病院を後にした。
タバコなんか次の日吸う気にもなれなかった。
 
 
父さんの夢を見た。
夢の中の父さんはいつも大きくて若く、そして無口であった。
いつもいつも書斎で「放射線学会」の雑誌を英語の辞書とか引きながら勉強していた。
父さんは「神奈川県成人病センター」のちの国内初の「がんセンター」の放射線技師であった。
父さんは夢の中で「古いネガ」をみて、小さな影に苦悶の表情をして判断に困っていた。
急にボクのほうを振り向いて、つくったような笑顔を向けた。
父さんは『オレが写真を見てやるか?』と言うような顔をしていた。
 
「嫌だ!父さん!ボク・・生きたいよぉ・・生かしてください」
 
イメージ 1
 
夢は覚めた。
寝汗をじっとりとかいていた。
ウツとはまた別の、眠れない夜が始まった。
 
父さんには相談しようか?
いや、父さんだけには相談しないようにしよう。
矛盾した葛藤がボクを支配した。
こういうとき「母さん」が真っ先に浮かぶのであるが、母さんは元看護士・・。
こういうときだからこそ、母さんには話せなかった。
 
父さんは放射線透過装置のプロ・・。
それこそ「初期のX線透過装置」から最新の次世代MRI・POTまで精通している。
米国の学会で何だか発表までしてきたヒトだ。
父さんなら「見落としは絶対無いし、判断を誤らない」冷酷なまでのプロである。
医師に対し、『オレがみつけなきゃ医師は何も出来ない』・・直訳ではないがこんな感じが口癖であった。
医師にも「先生」と呼ばれていて少し格好よかった。
 
それでも小さい頃は長いこと、父さんの仕事は具体的に判らなかった。
「吸って吐いての写真を撮る」・・そんな雑な知識が先立っていた。
 
2回目のMRI・・と言っても、病院側は「もう確認済みの確認」ぐらいのものであった。
 
MRIがゆっくりとボクを飲み込んでいく。
クソつまらない音楽と、コンコンカンカンという無機質な機械。
それが特に有機的なココロまで見透かしてしまうようで怖かった。
 
イメージ 2
 
出来た画像は、ボクから見ても良く判らないが「明らかに大きな薄い影」は見えた。
 
『若いからね・・でも今から気持ちで負けちゃダメ!頑張ろう、ね!?』
 
そんな折、大好きであった「伯父の訃報」を聞かされた。
丁度孫とボクの調子を見に来ていた母さんと一緒にボクは帰省した。
飛行機の中で母さんに話そうか?
いやそんな場合じゃない!
ボクは生きている!
死んだヒトをきっちり送り出す、最後の挨拶ができるのも生きているからこそ・・。
ボクは飛行機の中で眠ったフリをしていた。
 
涙が出てきて困った。
隣では疲れた感じの母さんが、軽い寝息を立てていた。
 
(伯父さんの記事は既に書いた)
 
 
空港に向かう前の娘の顔が浮かんだ・・
心配そうな顔で『帰ってきてね?』と言っていた。
 
「勿論、ちちは・・いつまでも一緒だよ!」
 
 
「死ぬまで一緒だよ・・」なんて出かかったが慌てて言わなかった。
 
2月はいろんな意味で逃げた。
・・・一番に、現実から逃げたいのはボクだったかも知れない。