MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

うつ病と寿命

100歳で市役所とかから表彰される。
 
財政難、福祉費増大という現況からすれば、そういうことをしている場合ではない。
 
・ 80歳、女なら平均余命あるからいいとして、男なら年金停止する
・ 90歳、男女問わず、年金停止と家財差し押さえ、換金して歳入に組み込む
・ 100歳、「こんなに生きちゃって・・もう困りますよ表彰」をして自覚を促す
 
過激そうであるが、政府や行政の本音であろう。
実際にボクらウツ人でも、社会的には「損失」であって、もっと非難されてもいいと思われているであろう。
自死3万の時代」とか「うつと現代」とかいう特集を組まれるたびに思う。
社会問題として認識させる一方で「少数であるが結構増えてきて困るよね」というベクトルも透けて見える。
つまりは「最大多数」の前には、5万であろうが10万であろうが、少数であるのだ。
多数決で医療や福祉を考えると、少数は「例外」であって、どんなに深刻でも無視に近くなる。
例外が集まったとこで例外なのである。 
多数にも常識にもならないのである。
 
寿命という「考え方」がある。
「平均寿命」じゃなくて、「自分は何歳まで生きられるか」具体的に考えていくのである。
何歳まで生きたいか、でもいい。
 
1 すぐにでも消えたい
2 とりあえず定年してあとはゆっくり
3 向こう10年ぐらいは何とかなるかな
 
「1」はウツ人の極端な例であるが、発病劇症期と回復期の波に多い。
自分は無価値であり、存在に疑問があるので生きたいという考えにはならない。
が、「寿命」という考えを入り込ませると、少しは、ほんの少しはラクになるかと思う。
考えられないであろうが、もし明日治ったらどうしよう?何をしよう?と考えると面白い。
急に意欲が出てきて、ソレが何日も継続するのである。
当然「体力」が要るから、じゃぁ腕立てでも5回ぐらいしておこうか?とか
買物に行きたくなったり出かけたくなったりするから、オシャレと財布の整理ぐらいしておこうか?となる。
ボクは医師に「治った・治るよ」という意味合いのことは一度も言われていない。
ソレを悲観しても仕方ないから、医師とは違ったアプローチで楽観しようと思っている。
 
「2」「3」はウツ人以外の多数派に多い。
とりあえず定年!というなんとも長期で豪快でうらやましい。
「死」とか「寿命」とかそういう匂いはしない、考えていないのであろう。
 
寿命を決める、というか漠然とイメージだけ持つ。
すると、逆算して「定年」とか余生の過ごし方も決まってくる。
70までは生きていないだろう?となると60まで働く気にはならない。
体力の要る趣味があれば「余生」は多く楽しみたいから、定年を繰り上げる。
すると年収が今より必要になって、じゃぁ前倒しで働くか?となる。
大切なのは、子供の教育とか自分探しに、時間も費用も割く意味は無いということである。
自分がしっかりしていなければ子供どこではない。
逆に、自分がダメでも子供はしっかり育つ。 
(ボクが言うから多分そういうものである。)
自分探し(趣味・適性・交際相手・人生設計・保険とか)を他人様にあずけるようなら、
多分「探したい自分」は、くだらないものであり、見つかった自分はもっとくだらない、と思う。
 
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ボクは40という年齢を実感できずに居た。
普通「予想できる・見えてくる」そういうものであろうが、見えなかった。
だから30代に「寿命」を設定してきた。
勉強とか交際とか云々・・一気に10代で詰め込み、結婚はおろか就職すらしないと思った。
ソレが、結婚を機に大きく転換してきた。
ただ「30代寿命」の生き方は、きちんと始末をつけてくるものでソレがウツかな?と思ったりする。
こじつけであるのだが、うつ病に自分が責任を持つ、という考えだとこうなった。
 
娘が自転車の練習をしていて、急に補助・保持なしですーっと走って行った。
暫くは振り返らないで、振り返って遠くのボクを見て驚いて転んだ。
 
うつ病もそういうもんかな?とふと思った。
振り返らなくなったとき、治ったかな?と思えるんだろう。
 
娘は、そのうちに、黙っていても「振り返って欲しい」ときでもすーっと走っていくのであろうが。