MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

裁判員裁判で死刑判決、どう思う?

YAHOOブログのトップページに目がいった。
「お題」というものは非常にありがたい。
何を書こうかネタがありすぎて選ぶのが面倒くさいとき、とりあえずソレ!としておける、
何だか非常に高尚で難解なテーマであるらしい。
そうかなぁ?
「どう思う」ってのも、結論は判っているしなぁ。賛成・反対・条件付でどっちか・判らない・・・
そんな程度の「どう思う?」なら聞かないほうがいいと思うし。
 
結論としては「どうも思いません」。
 
はい、有りだと思います。
 
ココでもう「死刑賛成派」とか「死刑存置論者」に分けられるんだろうなぁ。
すると死刑反対派から、死刑は国家による殺人である、とか冤罪の危険性とか言われる。
今回は「国民から無作為に選ばれた(明日はわが身の)代表が死刑を支持した!どうする!?」
ということだろう?
 
『おい、オレも選ばれちゃったら「死刑」なんて結論出せないよ・・』
『そうだよなぁ・・ちょっと責任重すぎだよなぁ・・』
『でも、残虐で前例もなく・・だったら死刑を選んでも良いのかなぁ』
『怒られないかなぁ・・被告に・・』
 
そんな風に、飲み屋で鍋をつっつきながら会話していると思うと面白い。
別に「アンタが裁くんじゃない」のである。
 
ヒトがヒトを裁くのが現行の日本の法制度であるという認識が、既に違う。
日本は刑事事件に対し、警察が初期捜査し検察に送致する制度。
警察も検察も「職権」であり、システムである。
個人ではない。
個人でやれ!と言われたら、おっかなくてできない。
そういう意味で「公務員の業務」としてやる。
また、誰もが「好き嫌い」で捜査立件することになったら、いろんな意味で危ない。
 
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裁判官は、と言うと、事件が「書類」になったものを、もう一度「ヒトの事件」として審議する。
検察が「起訴すべきだなぁ」と職権で判断して送ってきた「書類」である。
裁判官も個人ではない。
「判決を下す」のは個人ではなく、裁判という職権であり、システムである。
「個人が個人を裁く」という認識でいると大間違いなシステムになってしまう。
裁判官も「裁判所はこう思ういます」とシステムとして会話する。
「私は無期ですが、○君は死刑と言ってました」とは絶対に言わない。
 
いつどこで誰がどんな事件を起こしました。
被害者は誰で、その被害はどの程度でしたか。
なぜそんな被害になったのですか。
なぜそこに至ってしまったのですか。
「書類」はしゃべれないので、検察官や弁護人が必要になる。
証拠も必要になるし、証人も必要になる。
検察官は、被害事実を「職権」で確定していく。
弁護人は、被告を「職権」で擁護する。
個人ではない。
個人がやったら「お前なんか嫌いじゃ!」「オレは好きじゃ!」が多発する。
裁判システムではなくなり、その辺の街角のケンカ以下になる。
 
職権を持った職業人がシステムの中で「妥当な判決」を導くだけである。
裁判員も裁判システムの中の「職権」であるに過ぎない。
『オレはそんなヒト様を裁くなんてこたできねぇ、人非人にゃなれねぇ!』
別に裁判員には、心意気とか義理人情は求められていない。
行って、話を聞いて、自分ならこう考える、と言って、あとは守秘義務である。
裁判員制度は悪でも時代への逆行でもない。
あまりにも世論と裁判がかけ離れるのを防ぐために一般国民からも参加させるようになっただけである。
 
でも、国民にはあまりになじみのない話で、想像もつかないからマスコミも煽る煽る!
今回は「死刑」が出たから、身が「やましい」マスコミは、すわ!と尻に火が付いたのか。
 
 
『あなたは死刑判決が出せますか!?』
 
『あなたならどうしましたか!?』
 
『どう思いますか!?』
 
 
猪木さんの『元気ですか!?』の方が100倍は気持ちの良い質問である。
 
むずかしくはないと思う。
むずかしく考えすぎていると思う。
被告というヒトを、自分が殺すとか生かすとか、そんな奥深いテーマは多分ない。
 
『裁判なんてねぇ・・スーパーで買物するのとはレベルが違うわよねぇ』
 
いや、同じだと思います。
 
牛乳というのは生産者がヒトである。
生産者は牛なのだが、飼育したヒトということになる。
生産者は「職権」で牛を飼育し、好き嫌いで頭数を増やしたりはしない。
病気の牛が出たり、乳の質が悪くなると、これも「職権」で検査が入る。
好き嫌いで検査していたら、酪農は全滅である。
ここまでも立派なシステムであるが、検査を通ると、市販されるまでのシステムに乗る。
殺菌され、密閉され、流通システムに乗る。
そして小売されるのであるが、ここでも小売業界のシステムに乗る。
低脂肪は安く、とか、北海道産は高く、とか一流メーカーはそこそこの値段で、とかである。
売店員も「職権」で仕事をしているので、忙しいから牛乳捨てちゃえ、とはならない。
そして「158円」とかいう値段が決定するのである。
小売価格が適正かどうかは、逐一審査するシステムがあり、生産者はそのシステムに文句が言える。
厚労大臣とか首相は、個人であるがシステムの責任者という立場から誤解されやすく
『コレじゃぁダメです!お願いしますぅ』というイレギュラーな文句を聞くこともある。
生産者はシステムに乗って文句(陳情)するのが筋であり、そのための市長であり知事である。
口蹄疫のときの宮崎県知事の全力疾走はそういうことである。
 
すっごい、ざっくざっくりであるがシステムであり個人ではないという点で同じである。
 
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『牛乳1点、158円になります!』
 
「え!高いよ!ホントに158円の価値があるんですか!?」
 
 
裁判員裁判で死刑判決、どう思う?」というのは、こういうことと一緒である。
 
裁判というシステムをどう思う?検察警察は真面目なのか?え?どう思う?
弁護人てどうなの?え? 裁判官だって好き嫌いで死刑とかじゃねーの?
裁判員?素人だろ?やばいっしょ?どうなの?
 
つまり「決まったシステムへの難癖・いちゃもん」であり、見苦しい。
 
 
『牛乳1点、158円になります、あの・・どう思います?』
 
結論としては「どうも思いません」。