MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

キムタクの「おじき」

今は家にいる。
妻の実家にいて帰る直前に観ていたのが特番であった。
SMAPの木村さんが明石家さんを「おじき」と呼んでいた。
コレには周囲でも芳しくなくて残念である。
以前会社で聞いたが、木村さんに好意的な女性陣からも「気味悪い」という評。
 
 
お前らに関係ないだろ・・
 
 
芸能界というのは、多分一般からはかけ離れた世界である。
ヒトが人格以前に商品として値踏みされ、売れるのかと同時に売り方まで決められる。
更に売れれば売れるほど、個人として許される範囲が極端に狭められる。
ヒトとしては許されるが「○という商品としてはどうなんだ?」という曖昧な世論が本人を締め上げる。
私生活というものはほぼ存在しない。
息をすることと眠ることぐらしいか許されない。
おそらくぐっすり眠る場所すら難しい。
 
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木村さんの情報がボクの中では「あすなろ白書」で滞っている。
柴門ふみ女史のマンガのドラマ化だから観ただけである・・という理由。
以降は「芸能人の中でも別格の芸能人=アイドル」という情報しかない。
芸能界でも一流ならば、彼はいつただの日本人になるのか?彼はいつヒト足りうるのか?
ふっと明石家さんと繋がった。
 
一流同士というと語弊がある。
明石家さんは、笑いへの取り組み方が病的ではなく、その辺に転がっているものを拾うように自然である。
自然体の極みであり、その意味で天才である。
天才であるから、他も自然体で済ませられるのであろう。
しかし、芸能界というところは、人徳が少なくては頂点には長居出来ないであろう。
古老を軽んじ新人を僻んでいては、人徳は落ちる一方であったと思う。
おそらく多方面で人材を見抜き、物心双方で面倒を見る余裕があるのだと思う。
 
木村氏は努力のヒトであると思う。
SMAPはスポーツ&ミューシック・・何だったかの造語で、つまりは万能という語意であったと思う。
SMAP創設以来、愚直なまでにその本旨を貫き通したのが木村さんだと思う。
何でもできる、のではなく、与えられたことに対し最大に努力してきたのだと思う。
キムタクだから・・で片付けるにはあまりに残酷であり薄情であろうと思う。
 
アイドルに限らず「特化」していく傾向は以前から強い。
万人に愛される人物、という神話はもう誰も信じていない。
商品としてのヒトも特化されてきたし、これからも細分化していくであろう。
 
・ 好奇の視線を承知でソレを踏み台にするヒト
・ 日常との近さ(その辺のアイドル)という矛盾を崩そうとするヒト
・ 専門的職業の中では、という但し書きつきのヒト
・ 二次元にしか存在できないヒト
 
SMAPの全メンバーもおそらく「特化」という商品価値を突きつけられたとき逡巡したと思う。
俳優・バラエティ・ファッション・アジア進出・司会・歌手・語学・芸術・・・云々細々
そのどれもが特化しがたく、ひとたび進めば戻るに困難である。
個人的には森さんが好きであるが、彼は「特化」の押し付けを拒み芸能界に居場所を求めなかった。
これも個人的だが、木村さんも特化を拒んだと考える。
特化ではなく、どれもこなしてみよう、という意志があったのだと思う。
意志だけで結果は生まれない。
木村さんがキムタクというジャンルを築き上げるには、いや、周囲が築き上げざるを得なくなるまでには、
想像を絶する。
その想像を絶するところに、適宜に自然体で現れ、心をほぐしていったのが明石家さんなのだろうと思う。
 
芸能人が全国放送で特定のヒトを「おじき」と呼ぶ。
その影響力、(商品価値への)危険度は芸能人なら十分に承知している、いわんやキムタクをである。
つまり、両者の間は血縁を越えたところにある信頼関係からなっている。
強固な信頼関係は、親族すら他人にもなろう。
一般人がどうこう言える関係ではないし、言ってはならない関係である。
 
ボクには兄や姉と呼べる人物がいる。
赤の他人ではないが、直接の兄弟でもない。
が、万事に窮して叫びたいとき、連絡先として浮かぶのは実の兄弟はなく、彼らなのだ。
実の兄弟の前では、死にそうな自分でも笑って大丈夫だよ、と格好つけそうになる。
『大丈夫じゃないんだろ!』と本気で叱ってくれた兄姉があってこそボクは生きている。
 
実の兄弟には・・日を改める。照れくさいのだ。
弟達は「兄貴」と呼ぶ。これもおそらく照れ隠しである。
 
木村さんの「おじき」も照れ隠しであると思う。
本心の呼び名はもっと越えたところにあると思う。
自らの商品価値を反吐が出るほどに知っているからこそ「おじき」で抑えているのだろうと思う。