MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

キリストとブッダとウツ人と

大型家電量販店から帰ってきた。
腹が立っているのかもしれない。
何だか腹の奥からムシムシとした嫌悪感が込み上げて吐きそうだ。
このムカツキは安穏と平和をむさぼっているボク自身への反自我であろう。
決して量販店で見た数人の「知識人」に対してのものではない。
 
『AKBより、ミク(初音)の方がうめーよなぁ?』
『げっ、3DSやっぱ売り切れっしょ!?』
『やべ!ミクのアルバム!やっべ!超やばいしょ?』
『初回限定じゃない・・けど、欲しかったぁ、やばいっしょ?』
 
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こういう、やりとりに吐き気がしたのなら「離れれば良い」だけである。
何もそこに居つづけて文化論についていこうとしなくとも良い。
逃げることも、自己を守ることへの理由としては十分である。
優先席の前で、権利だけを恨めしそうにぶらさげて、こちらを見ている老人への対処も同じだ。
病んでいるのは、外見に限らないのだ。
ウツ人は、優先席でぐっすり眠る権利がある。
ただ、電車に乗れないだけだ。
 
さて、
先日ブログに匿名で訪問があって、ちょっとあなた上等ですよ、こっちにいらっしゃい、と誘われた
妙なキリスト(ファシズムな宗教もあるのだ)の一派がご立腹らしい。
「ちょっと宗教について・・要はツラを貸せ」というような内容であった。
そうそう、NZの一件で「祈って助かる命はない」と書いたただその一文への猛省を求めてきたのである。
あらためてブログで謝罪しろ、つまりはそういう一方的な要求である。
結論。
 
寝言は、死んだ気になってから言え!
いや、死んでから言え!
 
ボクはもう随分起きていて眠ることは難しい。
ぐっすり眠って、たまたま見た記事のたかだか一文に対して、心から怒るほどの高配に感謝は出来ない。
いや、感謝しよう。
今からきちんと「筋」を通すから読んで下さいね。
 
クライストチャーチで今も救出を待つしかないヒトに祈る。
ソレを誰が否定したのか?
行間も読まずに、福音書ぐらいで諭そうとしないで欲しい。
自分の親を子を、親戚縁者を知人友人を、その死を願うヒトがどこにいるのか?
救援隊は、休まずに寝ずに働いている。
ソレはプロであるからだ。
そして、すぐそこの命に、自分の命をぶっつけていくしか手段がないからだ。
助かっても仕方がない・・・そんなことを考えているヒトはあの場所にはいないのだ。
あぁなるのなら、いっそ神に召されたほうが・・そんな悠長なほど、ヒトの願いと意思は軽くない。
目の前のヒト、ただそれだけのために、
いるかいないか判らないが、ただそれだけに、全員ができることをしているのだ。
生きているなら、命を賭して救うだろう。
生きていなくても、どこか動くまで叫び、呼び続けるだろう。
被害者の家族がなぜあそこまで行くのか?だと?
あなた、アホですか?それともドアホですか?
「自分の大切なヒトが見つからない、声も聞けない」そうなったらどうする?
ただ座ってテレビやラジオでも聞いていれば、気が済むのか?
気が済む、そういうことではない。
できるだけ近くに、どんなことをしても自分が助けてあげる!!
そう思ったとき、もう、家族や関係するヒトたちは現地にいたのだ。
いくらかかる、とか、何をどう持っていくかではない。
法話や福音のような、きれいな理屈じゃないのだ。
きっと生きている、助けたい。
残酷だがソレは叶わない。微震の続くガレキを前にして、力も技量もないのだ。
救助隊は、その思いを知っている。
だから「あとは任せてください、きっと見つけます、生きています」、それしか言わない。
家族は、現地に行ってまで何もできない、ヒトとしての自分を呪うのだ。
そして言葉にならない思いが、祈り、という鉄も貫く激情に変わるのだ。
奇跡はヒトが起こすのだ。
 
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実感してないとは云え、戦争と、多くの天災を知りながら、なぜ、そんなことが判らないのだ。
知識ではなく、智恵でも祈りでもないのだ。
ヒトを動かすのは、祈りを越えた、懸命な汗と情だけだ。
奇跡は神が起こすのではない。
ヒトが起こすのだ。
偶然に助かる命などない。
 
 
ブッダ釈尊とは云わぬ)にしてもキリストにしても、はじめっから「高み」にいたわけではない。
自分が悩み苦しみ悶える中で「なぜこんなに苦しむのか」とひたすらに問い詰めた。
問い詰めていく過程で、そのヒトとなりがヒトを感化し、ヒトに崇拝された。
自らは神とは思っていなかった。
彼らを神にまつりあげたのは「自分に自信がない、ただの当たり前のヒトたち」である。
自分の富や権勢を確立・維持・流布するのに、「神」はなんともいえない道具であっただけである。
紀元前後は文化が未発達だった、そういう好条件もあった。
そう、好条件だ。
着る食う寝る、そういう大前提が未発達だからこそ、問い詰める時間があったのだ。
その「未発達」が、別の面で、ヒトとして愚直に生きていたキリストをブッダを、
「自分の利益にそぐわない、そう考えるただのヒト」による多数決で追い落とすという暴挙に向かわせたのだ。
キリストは神が遣わせたのではない。
御仏がブッダを選んだわけではない。
神とはただの善なる意思であり、どんなに間違っても「ヒトの形」などしていない。
御仏も同じ、あまねく民衆を救う、そういう意思の総体であり「示現」としてブッダが生きているのである。
 
救いがたきはヒトである。
どんなにカネやモノを与えても、その心が平穏を得ることはない。
他人と比べ、過去の自分と比べ、常に動揺し焦燥し、ただのヒトに立ち返ろうとしない、いや、できないのだ。
ソレがヒトの「業」である。
自分が、良く生きようとすればするほど、他人を妬み、他者の命を盗み、そして奪う。
草木を抜き枯らし、肉を喰らい、水を汚し干上がらす。
山を崩し海を埋める。
カネもモノも、その「高き」を競う。
空にそびえるビルやタワーこそヒトの性(サガ)である。
高級な装飾品・車・服・家屋・・・地に下りようとする気配はない、いや、できないのだ。
ソレがヒトの「業」である。
 
最後に断っておく。
ボク個人への誹謗中傷ならいくらでも受けよう。
ボクには、ソレを受ける義務も覚悟も十分にある。
が、ウツ人全体を「ひとくくり」にして神仏から見放された哀れなヒトと見るな!
なぜキリストもブッダも「ヒト」として生まれて生きて死んだか?
それは、ヒトが一番不完全で軟弱で愚鈍であるからだ。
ウツ人はみんな、自らの存在の意味を毎日問うているぞ。
良く生きよう・・そんな愚問はそこにはないぞ。
死にたい、消えたい・・でも、どうしても、いや、うーん、できることなら死にたくない・・。
そんな死にゆくわが子のような切なく、そして水色の氷より冷たい・・心境が貴様ら「聖職者」に判るか?
判らなくても良い。
判らないほうが良い。
判った気でさ、
「救ってあげましょう・道を示しましょう」  そんな寝言、ボクは聞かんよ。
生きていることを望まぬ生き方もあるのだ。
そして、ソレを越えたとこに、手を伸ばせば届きそうな、でも決して届かない、暗くほの明るい地があるのだ。
そこに行く道は、ウツ人が一人一人歩くしかないのだ。
背中を支えるぐらいなら良い。
が、決して「手を引っ張るな!」。
あなたたちに渡す手は、指の一本、一関節もない。
足をひっぱられては困るのだよ。
 
蛇足だが、みんなに謝りたい。
宗教やもっと大きな意思に身を任せて生きている方も多いだろう。
ボクは宗教は否定してない。
春の午後のような教えや救いも多い、それは嬉しいことだ。
・・ボクはボクの足で歩く。
そう言いたかっただけだ。
みんなを巻き込む気は毛頭ない。
ただ、仲間を簡単に罵倒されて、黙っていられなかっただけだ。
 
認めたくないものだ・・坊やだから・・・