MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

ブログ5周年

明日でブログを書き出して丸5年になるらしい。
めでたいことではないが、継続が力だとすれば、少しは屁の突っ張りにはなるのかも知れない。
1年目は憶えていない。
2年目は、焦って書いていたのを憶えている。
3年目は好き勝手に書いていた。
4年目以降はもうグダグダである。
一貫してきたのは「あとで笑えたらいいな」という自分へのメッセージである。
加えて「生きていればあとはオマケ」という、読者への小さなメーッセージである。
死にたい、消えたい・・そういう思いが充満した数年とソレを乗り越えようとした数年。
そして、そういう思いを踏まえて、さしあたり進もうと歩き続けて、また数年。
 
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「10年一昔」などと乱暴なことは言わない。
「一年」とひとくくりにして振り返れるほど毎日は希薄ではないのだ。
昨日は、とひとことにさえできないほど一日は濃密であり、同時に空虚でもあるのだ。
過去を振り返っても、蜜のような甘さも濃度もない。
未来などという遠すぎることに思いを馳せる余裕も度胸もない。
一日一日が重なれば季節になり、まとまると一年になるらしい。
そういう当たり前のサイクルを見守れるほど、ウツ人は行動的ではなく、引きこもった詩人でもない。
春はウツ人にきついし、夏は更にきつい。
秋はなんのロマンもないし、冬は気温以上に過酷である。
一日が朝で始まるという決まりはウツ人にはないし、
夜になれば眠って、起きたら朝だという自信も約束もないのである。
 
昨年は良い一年であったと言えないし、別に振り返る価値もない。
今年こそ!と何か掲げるほど毎日は雑に過ぎてはいない。
丸5年に価値があるとすれば。
丸5年生きてきた。
それ以上ではあっても、未満も以下もない。
赤ん坊が5年で5歳になるのに似た、静かな劇的な事象の総体が、ただ現在のボクをつくっている。
生かされている、と、まだそう言えるほど達観していない。
ボクが生きようとする限り、生きるのだ。
世間一般では「生きるとは、当たり前のことを」と笑われることを、ウツ人は身をもって生きるしかないのだ。
 
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生きることは当たり前ではない。
生き抜く、とか、生き切る、とか大層なものではないが、ただ生きるとは、重い。
毎日の、ほんの一分一秒から、生きることの意味を問われ、逡巡し沈黙し苦悩する。
苦悩しても道は変わらず、立ち止まることは恐ろしく、疑問に答えてくれる声はない。
灰色の雲が日に日にたちこめて、高度を下げ、蒸し暑く呼吸も苦しくなる。
何かつかもうと手を伸ばしては下げては諦め、また手を伸ばしては雲をつかむ。
不安は不安を呼び、質量をもって残酷にも包囲してくる。
何か方法があるはずだ、そう悩み続けて、見えた光はいつも不安の雲から覗く絶望の怪しい光。
死や消滅ということと、生ということがいかに一体のものか、いかに不可分であるか思い知る。
こんなに苦しんでまで生きる意味って何だ、価値って何だ。
重く意味のない問い。答えるのはいつも弱い自分。
どこまでトンネルなんだろう、どこから光がくるんだろう。
今は夜なのか朝なのか、四季のいつなのか、これから起きればいいのか、これから眠るべきなのか。
手探りで、どこまでも手探りで手を伸ばしていく。
これからも、いつまでも。
自分自身を信じて。
自分を信じてくれる人達を信じて。
 
ウツ人はみな、まだまだ生きる。
ただ生きる。
ただ生きるために生きる。