MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

愛は地球を救わない

更新する気がない。
いや、気力がなかった。
やっと涼しくなったので書くことにする。
 
以前も書いたが、この時期は痛切に思う。
愛は地球を救わない。
○○テレビの懐が潤うだけで、24時間もテレビを流すこと自体、節電への暴挙である。
地球はいじめられ続けて満身創痍なのである。
温暖化ではなく「怒っている」のである。
ヒートアイランドなのではない。
土を覆われて自然冷却ができない、地球の鬱積した噴出寸前のマグマの暑さである。
京都議定書がダメになったとかそういう事務レベルの問題なのではない。
「人間だけで決めるんじゃねぇ・・」という他の生き物達の声なき声を、地球が代弁しているだけである。
クーラーを28度にしましょう、とか、扇風機が売り切れ、とか、そういう家計レベルでもない。
地球を救う道は、人類滅亡に尽きるのであり、
そこをどうにか穏便に許してもらいましょうという姑息な手段として(怪しい)宗教があるだけである。
 
ではボクは募金しないか?というと・・・する。
募金はしないがTシャツを買ったりする。
以前は妹のコネで入手していたが、自腹を切ることも良い事だと思っている。
バカなのではない。
アホなのである。
 
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いい出来である。
文化祭の、クラスTシャツ案であれば、多数決の前に瞬殺である。「あり」えな~い!である。
2,000円であれば、そのうち10円が材料費、90円がデザイン料である。
1900円は暴利である。
こういうものに「募金=チャリティ名義」でカネを払うと、自己嫌悪を超えた倒錯した陶酔感が生まれる。
罪悪感や後ろめたさを通り越して、突き抜けたい奇怪な欲望に駆られる。
判っていて「ささくれを深追いして血を流す」ような、自傷に近い安心感がある。
2,000円を落として失くすなら、まだ救われるのだ。
いつどこで落としたのか?いつか使ったのか?忘れているのか?
そういう、どこかに自分の責任を放り投げるような「安全地帯」が皆無なのだ。
いけてるナウなTシャツは厳然としてそこにあるのであり、ソレを買ったのはボクなのだ。
「あんな男、別れないとダメよ」と100人に言われ、それでもまだ付き合って綻びていく自虐にも似ている。
累々とデザインに秘められた、根拠のない血が滴る残酷さがたまらない。
(一部、関係のない氏名が入っていることをお詫び申し上げます)
 
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ボクは感情が少ないが、こういうモノを見ると外人のように「ワオー!HOO」などと言ってしまう。
メッセージ性は探せば探すほどなく、掛け値なしに切捨てゴメンである。
浅草の仲見世で売っている「武士道!ごちそうさま!Tシャツ」よりもつかみ所がない。
コレを着ているだけで、
何も考えていないんだな・・・と思われること確約である。
ウソと判って募金したんだな・・・という予想、まさに売約である。
着こなし審査では条件なしでロックオン!である。
 
ボクは、だまされるのは大嫌いである。
こういう、わかりやすいサギでだまされるのは最も嫌いである。
が、危ない!と言われるとやってみたい。
万が一なら、9999は失敗で、ほぼ確実に残念な結果しか待っていない。
そういうところに「愛」を感じてしまう。
山本リンダ女史がピタリと止まっても、どうにも止まらないのである。
納豆に、色気づいて砂糖をかけていたら、間違った、塩か・・・。
あわわわ・・と醤油をかけたらめんつゆだった。
もう、億にひとつも美味しくないのである。
食べるのである。
「しょっぱくて少し甘くてまずい納豆」としか表現できないもので食べるご飯に土下座である。
そういう中でほくほくと美味しいご飯に、底知れぬ愛を感じる。
とりあえずボクは救われない。
 
歪んだ愛なら誰もいらないのだ。
倒錯した愛情、とか、自虐的な母性愛、とか、所詮は言い訳なのだ。
愛は多分、人間が到達し得ないから、いつまでも大切にされるのだ。
I LOVE YOU、と英語圏の女性に言ったら怒られたことがある。
神でもない限り、軽々しく言ってはダメだ!みたいなことを言われた。
ハリウッドは大ウソツキである。
テレビで愛を語れるわけである。