眠る贅沢
眠って起きて、与えられて食べてまた眠る。
眠れなくて苛立ち、それでもやっぱりどこかで眠る。
邪魔されない眠り。
際限なく与えられる眠りを、これ幸いと限界なく貪る。
亡者のように目的もなく、ありがたみを知らず、当たり前に貪る。
ふと、とんでもない贅沢だと気づく。
「悩むことは最高の贅沢である」とは有名な哲学者の言葉。
眠れないと悩むことは、それを凌駕してさらに余る至高の贅沢である。
考える。
これはボクへの過去からの報酬である。
今までの人生からのありがたい贈り物である。
惰眠など存在しないのだ。
どんな眠りであれ、小さくはかない眠りであれ、眠りは有難いのだ。
無駄な眠りなどいつの時代も誰にもなかったのだ。
今も眠れない人が多くいる。
誰にも等しく必ず眠れる日が来る。
精神論ではない。
経験論だ。
20年も前にボクは眠りが欲しかった。
自ら放棄しておきながら、誰にも邪魔されない眠りが欲しかった。
バイトに明け暮れていた。
学校を終わると着替えてバイトだった。
カネが欲しかった。
カネで自分の可能性をを買うのだ、と若さにかまけていた。
学校では眠く、金にならない数時間を呪っていた。
カネになる時間。得がたいカネ。
高給につられて新宿にたどり着いた。
喰われては喰いさがり、カネはカネの生贄を必要とし、太ってはまた2倍痩せていった。
近くでは予備校や塾も乱立しており、寸暇を惜しんでシフトを組んだ。
働き始めたときの月給より遥かに潤っていた当時の自分。
何を欲しかったのか、欲しくなかったのか。
その歩く道の先が、今のボクだと知っていたらあんなに働いただろうか。
IF・・・は嫌いだ。
どうやっても、やっぱり今のボクにつながり、その道には無駄なものなどなかったはずだ。
あのころのボクに会ったとしても「元気か?」とだけ思って声すらかけないと思う。
過去は過去であり、過去を否定して、現在を今を後悔しても何も変わらないのだ。
これで良かった、と心から思う。
当時は2時間の睡眠さえ惜しかった。
カネにならない人間関係を切り捨てていった。
それはヒトとして歪んだ生き方だったかもしれない。
どこか乾燥しきった、のりの利きすぎたYシャツのような着心地だったかも知れない。
友人を遠ざけ遠ざけられ、そして友人をなくし、ヒトと交わることを厭った。
きっとカネではない、と気づいてはいたのだ。
気付いた時のギャップが怖かったのだ。
気付かないことの甘美な柔らかさにだまされていたかったのだ。
そして、それでよかったのだ。
カネがなくなって、ほんとになくなって、気付いた。
贅沢とはカネの有無ではない。
貧乏人の僻みでもあるが、からっきしウソでもない。
経験論だ。
預金通帳など見なくなって久しい。
生きていくのにカネがでしゃばりすぎるのだ。
明日、借家を追い出されるとしても、ボクは絶望をしない。
明日、食べるものがなくなっても、ボクは空腹にはならない。
ボクは十分に眠った。
贅沢もさせてもらった。
妻と子供たちが傍らで眠っている。
あぁ、贅沢はここに極まれり。
持たざるものの贅沢なのだ。
贅沢な眠り。
眠るがいいさ。