MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

眠る贅沢

イメージ 1
 
眠って起きて、与えられて食べてまた眠る。
眠れなくて苛立ち、それでもやっぱりどこかで眠る。
邪魔されない眠り。
際限なく与えられる眠りを、これ幸いと限界なく貪る。
亡者のように目的もなく、ありがたみを知らず、当たり前に貪る。
ふと、とんでもない贅沢だと気づく。
「悩むことは最高の贅沢である」とは有名な哲学者の言葉。
眠れないと悩むことは、それを凌駕してさらに余る至高の贅沢である。
考える。
これはボクへの過去からの報酬である。
今までの人生からのありがたい贈り物である。
惰眠など存在しないのだ。
どんな眠りであれ、小さくはかない眠りであれ、眠りは有難いのだ。
無駄な眠りなどいつの時代も誰にもなかったのだ。
今も眠れない人が多くいる。
誰にも等しく必ず眠れる日が来る。
精神論ではない。
経験論だ。
 
20年も前にボクは眠りが欲しかった。
自ら放棄しておきながら、誰にも邪魔されない眠りが欲しかった。
バイトに明け暮れていた。
学校を終わると着替えてバイトだった。
カネが欲しかった。
カネで自分の可能性をを買うのだ、と若さにかまけていた。
学校では眠く、金にならない数時間を呪っていた。
カネになる時間。得がたいカネ。
高給につられて新宿にたどり着いた。
喰われては喰いさがり、カネはカネの生贄を必要とし、太ってはまた2倍痩せていった。
近くでは予備校や塾も乱立しており、寸暇を惜しんでシフトを組んだ。
働き始めたときの月給より遥かに潤っていた当時の自分。
何を欲しかったのか、欲しくなかったのか。
その歩く道の先が、今のボクだと知っていたらあんなに働いただろうか。
IF・・・は嫌いだ。
どうやっても、やっぱり今のボクにつながり、その道には無駄なものなどなかったはずだ。
あのころのボクに会ったとしても「元気か?」とだけ思って声すらかけないと思う。
過去は過去であり、過去を否定して、現在を今を後悔しても何も変わらないのだ。
これで良かった、と心から思う。
 
当時は2時間の睡眠さえ惜しかった。
カネにならない人間関係を切り捨てていった。
それはヒトとして歪んだ生き方だったかもしれない。
どこか乾燥しきった、のりの利きすぎたYシャツのような着心地だったかも知れない。
友人を遠ざけ遠ざけられ、そして友人をなくし、ヒトと交わることを厭った。
きっとカネではない、と気づいてはいたのだ。
気付いた時のギャップが怖かったのだ。
気付かないことの甘美な柔らかさにだまされていたかったのだ。
そして、それでよかったのだ。
 
イメージ 2
 
 
カネがなくなって、ほんとになくなって、気付いた。
贅沢とはカネの有無ではない。
貧乏人の僻みでもあるが、からっきしウソでもない。
経験論だ。
預金通帳など見なくなって久しい。
生きていくのにカネがでしゃばりすぎるのだ。
明日、借家を追い出されるとしても、ボクは絶望をしない。
明日、食べるものがなくなっても、ボクは空腹にはならない。
ボクは十分に眠った。
贅沢もさせてもらった。
妻と子供たちが傍らで眠っている。
あぁ、贅沢はここに極まれり。
雨ニモマケズ」で宮沢賢治が謳ったのは、清貧の美学でない。
持たざるものの贅沢なのだ。
贅沢な眠り。
眠るがいいさ。