MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

島田紳助氏の置き土産

一連の島田紳助氏(以下、氏としたい)の事件?は一応、収束しつつある。
氏の引退に端を発したマスコミの騒ぎも、そろそろ声が枯れたのか弁舌の熱りも減じつつある。
氏と暴力団の関係、事件とするならいつまで訴求するか、どこまでを関係とするか。
警察が動き出しそうだ、いやいやもう動いている、という憶測でマスコミはその手を引っ込めようとしている。
後は氏が燃えて朽ちていくのを、遠くからにやついて見ていれば・・という救いようのない楽観である。
火を放っておいて、火傷をせず観客を決め込めるほど今回の事件?は温くない。
 
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暴力団と芸能人というのは、仕方のない関係なのである。
芸能人は、上下関係のしっかりした系統だった組織のヒトなら別として、大抵は一介のヒトである。
だが自身は有名であり、姿、格好から全てが商品である。
商品であるから、住居、身につけるもの、その行動全てに制約がかかる。
一般人なら見過ごされる行為も、商品価値がかかっているから、自制が必要になる。
買物は行けない、交際はいつも秘密裡、自宅にさえおいそれとヒトは招けない。
こういう一般社会とのギクシャクした関係に必要な油が暴力団であるだけだ。
暴力団、とは暴力を売りにしているのではない。
基本的に「ヒトとヒトとの仲介」を行っている人材派遣組織である。
話し合いが必要なら話し合い、それでダメな機会が多いから武装が必要なだけである。
武装を必要としたのは警察をはじめとした官憲の在り方であり、法律の不要な締め付けがあったからである。
もし政治家がひとこと言って「アンタの言うことならよし任せろ」と暴力団が承諾するような間柄なら良かった。
が、「あんた政治家だけど大したことないから、そうだなカネをもらうか」となってきた。
今では政治家は暴力団を避けるが事実は逆で、
政治など格好悪いしカネにもならないから相手にされないだけである。
 
では有名な芸能人ならどうか。
昔の歌舞伎や相撲を例に出すまでもない。
大物の役者や歌手、選手・・そういった芸能人が自宅を出て、地方にでかけるとき。
自分の知っているところでは「カオ」でどうにかできるが、地方では何が起こるかわからない。
公演の最中に観客が暴徒になったり、宿泊先に入れない、家に帰れない、そういったことは往々にある。
地方には地方の「カオ」がいてそういうヒトが一言言えば、収束することも多い。
カオといっても暴力団ではなく、土地の有力者であったり地主であったり、商工会であったり多様である。
そういうヒトに「よろしくおねがいします」と失礼なくきちんと礼儀を通せるヒトが必要になる。
芸能人は羽振りがいいから、という一般人のチャラチャラした考えでは芸能人も困る。
カネはいくらでもカネである。カネの苦労と魔性を芸能人は一般人の100倍は知っている。
暴力団は人材派遣として仲介する。
伝統的に全国津々浦々を網羅するのだから適役なのである。
暴力団は「騒動を未然に解決すること」に関しては有能である。
ただカネが支払いの要素となってからも、カネ以上のものをもとめる。
結婚式などの祭典など、「ハレの場」に出席をお願いしてくる。
絆であり仁であり誠である。
全てカネで解決できないことなのである。
無理難題ではない。
「お前の大切なときは守ったから、自分たちの大切なときにも立ち会ってくれ」それだけである。
今はカネで解決できることも多いから、なるべくカネですませたい。
そいういう心理を見越しての「絆」でもあろう。
だからといっていい加減な態度で出ても失礼なのである。
氏はそういう人間関係、上下関係といった「絆」に敏感で、自分なりに筋を通したのである。
 
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暴力団との関係、そう言われるだけで一般人は罪悪とし、官憲は、すわ、とつるし上げる。
なぜなら法律がそう仕向けているのであり、暴力団=悪というイメージを全国力を挙げて浸透させたからである。
悪いイメージを与えたことに対して責任を取る。
悪いイメージとは「暴力団に対してつくられたイメージ」であり、
それに対する責任は、もはや漠然としており事実は判らない。
それでも「疑わしきは悪である。有名人なら罪は100倍」という恐ろしい世論は存在する。
そういう得体の知れないマスコミをはじめとする「世論」に対して氏は責任をとったのである。
確固とした罪ではないのに、なぜ責任をとって引退したのか。
これから後のテレビをはじめとするメディアのありかたに氏は警鐘を鳴らした、
いや「鐘」を見せて後は考えろということである。
置き土産は時限式。
続きは次回。