ウツ人と人形
なぜ人形を創るのか?と考えることが多い。
好きだから、では片付かないのだ。
ドールの愛好家、主に消費する(お迎えする)だけのユーザーは変身願望の現れである。
心理学を出すまでもなく「こんな自分は自分じゃない」という歪んだ願望を、
洋服や整形やそういった、容姿へのギャップを埋めるための代償行為である。
創作する方はどうか。
外見で主張できないから、その創作は深くそして自己嫌悪が如実に現れる。
原形があって、それに手を加えるのと、一から創るのは根本から異なる。
ただその線引きなどしなくていいと思う。
ドールというものを文化にまで引き上げる?には底辺からの突き上げが必要なのである。
陳腐なアート人形は良くて、秀逸な萌えフィギュアはダメだという。
そういう線引きこそが、全てを複雑にし、奇抜というだけで個性だという極論になる。
同じである。
ガンプラというステージで潰しあいという共食いをしているに過ぎない。
共食いをしているから、社会現象で片付けられ、美術館には笑われるのである。
ボクはウツ人として人形を創っているが、あまり細かいことを気にしない。
気にすると哲学になって、偉そうな思想ができそうな気がするのだ。
偉そうな思想というものは、他者を批判し自分をうぬぼれさせる危険がある。
だが、思う。
人形作りとは「死を目指しているのだ」と。
ヒトは基本として生きるために生まれてくる。
不完全な状態で生まれてくるのは、その後、どういった環境でも適応できるようにという理由。
いきなり走り出したりする赤ん坊はいない。
ヒトは馬や犬ではなく、魚でもない。
生まれてすぐに立つ必要もなければ、泳げる状況を求められてもいない。
人形は違う。
作っている時が生きているのである。
製作途中の人形や、バラバラにした人形が生々しいのは生きているからである。
そして完成と同時に永遠に死ぬのである。
人形が怖い、そういうヒトは多い。
当たり前である。
いきなり、生きているような死を受け入れられるはずもなく、生きているヒトには人形は怖いのである。
ボクも創っているときは怖くなるときがある。
自分の歪んだ欲求が死に向かうことを、何となくごまかす行為をしているだけだという気になる。
気ではなく、そうなのだと確信する。
ウツ人というのは、ある意味発病したときから死に向かう。
レミングのように、あちこちでバラバラに発病するが向かうところは同じである。
並んで行進しながら、お互いを見ることもせず、止めることもせず、止められる感情もなく、死に向かう。
感情で死にたいのではない。死が使命になる。
戦争モノを見ていて吐き気がするのはボクだけではないと思う。
生きることが恥なら死ぬしかない。
そういう歪んだ基準に何ら疑問も持たずに、ただ進むしかない。
なぜ?どうして?自問する余裕も必要も無い。
ただ常識とか社会とかそういう中で、自分に価値がないと思う。
価値がないと決めるのは自分以外なのだが、自分で決めてしまう。
ソコが間違っているのだが、間違いには気付かない。
「あそこで間違ったんだ」と気付けるヒトはいない。
いれば既に神か仏になっているはずであり、生憎、ヒトは死ぬそのときになっても岐路には気付かない。
気付いたとしてもどうもできないのだ。
今ただ毎日を過ごすしかない。
でも、どうやって?どうして?なぜ?
そういう疑問は毎日起こり、結論は同じ。
そして繰り返すことが日課になる。
生きるために生きている。
人形には申し訳ない。
完成したら動いて欲しいと思う。
それでも完成したら死ぬのだ。
可愛い人形という言葉は有り得ない。
可愛いと思うなら、死を受け入れているか、まだ死を意識していないだけだ。
ウツ人は死が怖く、そして死に惹かれる。
人形には魅力はあるが魔力はない。
永遠にキレイに可愛く死んでいる、そういうところが魅力なのかもしれないだけだ。