2011年最後
今年最後の記事となる。
意味は無い。さっき決めた。
来年は「ドラえもんが生まれる年100年前記念」である。
誕生年カウントダウンイベントを最後に、ドラえもんはキャラとテーマパークだけ残して消える感じがする。
そしてキャラモノは高値がつき伝説となる。
そういうのも時代という流れが成せる業(わざ)である。
今年はどういう一年だったか?そういう問いは大抵が無意味である。
なぜなら、何となく同じサイクルの中で、全ては些細なことを除き同じ。
大切な身内や、自分に関わらない大事を除けば、同じ流れに浮いている気がする。
アレは何年前だった?
へぇもうそんなになるかねぇ?
・・・・
そういう一時しのぎの無関心は残酷で、記憶違いで黄泉人を生き返らせ、生きし者を殺す。
が、大きな流れの大半はそういうものなのである。
ウツ人は少し違う。
今年というものはしっかりした輪郭を持たない。
今年は昨年の続きではないし、来年への確約でもない。
ただ、たった今の積み重ねが、ヒシヒシと深々と静かに積もっていくだけである。
昨年はどうだった?
一昨年はどうだった?
その前の年はどうだった?
ウツ人は答えをもっていない。
過去は自分に猛省を促し、不安と焦りを掻きたてる。
未来は余りに大きくて、ぼやけていて、怖くて、でも焦がれる。
自分は何モノでどこにいくのか?
行く行かないはいいとして、いつ、この今が動くのか・・・
当たり前ではない毎日を、おののき、悔しがり、歯噛みして生き抜く。
一年は365日という数字ではない。
一日も24時間という数字の軽さではない。
ただ、今を生きる。
上手く、とか、充実して、とか、自分らしく、とか、そんな重荷は一切いらない!
これからのために、そういうゴタクもいらない。
ただ、今を生きる。
全ては今のためにあるし、あったのだ。
苦しんだ自分も、情けなくて忘れたい自分も、全ては今の自分を生かすためにあったのだ。
自分を肯定する、いや、受け入れるか否かを問わず、ずっと自分は自分なのだ。
来年はどうなるか?
そんなこと誰にも、何モノにも判らない。
一秒先も判ってたまるか。
ひとつでも決まっていてたまるか。
うつむくなウツ人たち。
生きることに誰よりも懸命で、誰よりも恥と責を感じているウツ人たち。
疲れていて当たり前だ。
生きてきたのだから。
これまでも、そして今も。
もっと、もっと生ききれる。