MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

くたばれWBC~鬼と菩薩と~

お家芸である野球大国の復権を賭けたアメリカの国策である。
3年に一度開催される。その度に日本が優勝する。
3年に一度快哉を叫ぶ。その度にアメリカが憤怒する。
アメリカは国技が野球であるらしいが、国民はどうでもいいと思う。
日本の国技は相撲であるが、ボクはどうでもいい。
モンゴルを筆頭として国籍条項をうるさくいったら、きっと幕内は殆ど消える。
どこにも国技の威厳はない。
「萌え」を国技にして、秋葉原をメッカにしたらいいいとも思う。
ルールもなく、輪郭もはっきりしない、そういう国技だけあって・・なぜかメッカだけが決まっている。
メッカの他にエルサレム等の聖地があるように、中野とか各地の萌え地を聖地にしてしまえばいいと思う。
もう脱線。
 
その、野球世界一を決めるメッカに日本代表が次回の辞退を決定した。
実情はめんどっちいらしく、各球団側は出て欲しい(出るべきだ)といい、選手会は断固辞退しているとのこと。
つまり実際に野球をする選手達は「嫌だ!」というわけだ。
この辺で既に、野球界のカネのニオイがしてきそうだが、ボクはスポーツオンチでスポーツ通でもない。
もっと深いところでどんな駆け引きがあったかなど、興味はあるが知りたくはない。
千趣会・・・・何だ?
失礼、変換って面白い。
選手会」は辞退の理由についてこういっているらしい。
 
『オリンピックでも認められているグッズなどの版権収入が日本に認められていないからだ!』
 
ボクは感激した。
だって、とにかく良いプレイと自分の選手生命だけを考えていい「選手」が収入についてまで考えているのだ。
つまり、日本のファンが「どうにかして応援したい、でもアメリカまでいけるのは少ない・・」
では、とグッズを買ってその一部が、選手や日本代表の現在と今後に使われるのならば・・
ええ!!??ダメなの!?
アメリカに全額入るの!?
日本人が日本のグッズ買っても・・全部アメリカ!?
嫌です!そんなのおかしいです!
おかしいから辞退する。道理である。
更に『アメリカの商売に乗る必要がない』と続けた。
ボクは、また感激した。
野球も商売の一形態であり、プロ選手も商品である。
商品としては「できれば無駄な試合はしたくない」のである。
無駄に投げて肩を壊して、実際の日本の試合に出られない・・本末転倒である。
無駄に打って無駄に走って・・・出なくても良い「名誉職」みたいな試合に興味はないのである。道理である。
 
そこにきて、マスコミは言うだろう。
 
『ファンとしては、やはり三連覇が見たかった』
アメリカに日本のサムライスピリッツを見せて欲しかった』
 
あんた達バカですか!?
 
WBCの時だけ、野球みるファンなど、浅ましいにも程がある。
クリスマスの時だけ盛り上がる、寺社町の商店街祭りにも程遠い。
都合悪いときだけウツになる(という新型)ウツ人にも及ばない。
 
選手は野球生命が短いのだ。自分を商品と考えた損得勘定だって計算できるのだ。
「野球だけできれば幸せッす!」なんて、
マンガの世界にしか存在しないものを現実の選手に押し付けないで欲しいのだ。
・英語が話せない
・足が短い、胸が小さい
・顔の彫りが浅い、金髪が似合わない
そういう不細工なコンプレックスを、ファンとかいう変な形で選手に投影、期待しないで欲しいのだ
大和魂とも言わないで何がサムライスピリッツだ。
そもそも大和魂は、2回の戦争で跡形もなく消えさったのだ。
傷ついても、例え死んでも、何か残す!敵に一矢報いるまでは・・
そんなスピリッツは多分、ビッグコミックにしかない。
日本がアメリカに勝つ!完膚なきまで勝つ!
自分たちでは到底なしえない、そういう妄想に近い幻想を、リアルに実現してくれそうだから、WBCをして欲しい。
そして優勝!3連覇しなちゃ、僕は私は嫌々でちゅう・・
 
選手会はそういう意味のないプレッシャーにも辟易していたと思う。
 
それでもボクのような一切テレビを見ない人間も二連覇の映像は見ている。
あの高校生スモーカーのダルビッシュの力投には鳥肌が立った。
最後に決めたあの1球、直後の「鬼の顔」には全国の婦女が「抱かれたい」と思ったに違いない。
ボクも3回くらいなら抱かれたいと思った。
あの顔は、あらゆるプレッシャーを越えて、つまらない幻想を跳ね除けて、
野球人として成し遂げた「鬼の顔」であったのだ。
そして野球という文化に対する敬意、いや野球していてよかった!という「菩薩の顔」でもあったのだ。
鬼と菩薩は表裏一体である。
仏の心だけを持つ菩薩はいないし、鬼を否定していては悟りは開けないからだ。
菩薩は修行中の姿である。
 
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悟りを得れば良く知っている、あの姿になるのだが、まだまだ煩悩と闘っているから菩薩なのである。
チ○コがかゆい、とかパンツ食い込んで気になる、とか、アレ?小指たってない?とか、
そういう俗な段階では、こういう意味ありげで、何もない姿になる。
鬼もまた同じで、2対で一体になっているようでは鬼ではないのだ。
自分ひとりで、修羅道をくぐりぬけ、みんな殺しきって、あぁやっと誰もいないが・・寂寥。
そういうところで鬼は初めて菩薩足りうるのだ。
 
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阿吽の呼吸など、自分ひとりで成すものだ。
誰かに支えられた人生などないのだが、それでもやはり誰かを支え、支えられるしかない。
そう悟ったとき、鬼は「鬼の顔」になり、それでも無碍はしない菩薩と同じになるのだ。
 
別に難しい話ではない。
最近では貴乃花が満身創痍で勝ったときに「鬼の形相」と言われた。
セナとプロストが同じチームにいながら競り合ったときにも使われた。
個人的には怪我から復帰してハンセンを下したジャンボ鶴田の顔に見た。
「あに鐘を鳴らすのはあなた」を歌いきった時の和田アキ子女史にも見る。
和田女史は、あの歌を歌うときは自分に鬼を課し、聞くものは菩薩を得る。
美空ひばり女史が、引退説の流れる中で行った復活コンサートでは、鬼と菩薩の見分けすらつかない。
鬼と菩薩とは本来、そういう深いところで出会うものなのかもしれない。
 
WBCは、野球の深いところを掘り起こすつもりであったかも知れない。
しかし、悲しいかな、ヒトは俗であり、カネが欲しいのである。
菩薩も鬼もカネは欲しいだろうが、まみれる気はないのである。
だから辞退した。辞退するのが道理であった。
当然の成り行きである。
 
では、なぜ釈然としないのだろうか。
それは、当事者以外みんなが、ヒトだからである。
ウツ人もヒトである。
菩薩にも鬼にもなれないし、なる必要も無い。
ただ、一日を生きる。
単純で困難な目的。
だから悟れないのであり、悟る気も持たなくていいのである。
今日は個人的に、俗世の鬼や菩薩(と思っているヒト)に取り巻かれて疲れている。
この辺で勘弁してもらいたい。