MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

読本

日がな大抵は読本している。
読書というほど真面目に読んでいないので読本(とくほん)ということにしている。
いっつも堕落論からかじまる。
織田作之助は、大阪という土壌から東京に反旗を翻しそこなったとある。少し違和感。
別に坂田名人の将棋がどうこう、良し悪しではなく、大阪は商人気質で東京とは違う。
大阪はその気質を残しているが、東京はもうまっさらな江戸っ子は少ない。
東京に住んでいます!というだけで、僻地出身オラ東京さ、どこまでもそれだけ。
地方色を懸命に隠したコンプレックスの集大成が東京人の公約数である。
小林秀雄は、教祖になってしまって詩人になっちまった、とある。その通りだなぁ。
小林に評論されることが一流の作家であった時代は、その当時既に無理があったというわけか。
今でも○賞を取って、ある程度の信者を獲得し、その信者が狂信して作家の幅を制約している例は多い。
若手の双璧と個人的に思っている、上遠野浩平氏と西尾維新氏。
彼らをSFだの邪道だのというのは、若い世代に何も発信できない無能作家の嫉妬であり見苦しい。
両氏には、大いにヒトをきっちりと紙面で殺して欲しいのだが、維新氏はちとアレだよなぁ。
絶妙な言葉操りであったのに、信者に操られてきている気がする。
ボクは信者ではないから、説明不足に感じるのだけど、氏からすれば「ファンなら判る」ってなとこだろう。
連続して読んでいないボクのような読本者には、段々と近寄りがたくなっている。
 
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維新氏の実験?にしっかりと挑もうとすると、ボクの頭は追いつかなくて熱くてかなわない。
もっと気楽に読もうよって、中原中也とかリルケなんか読む。
普段なら小難しくて読まないんだけど・・。
気晴らしに中也ちゃんを読もう!なんて気分はおかしいなって思う。
中也ちゃんは、ただの駄々っこで、早死にしてしかるべきだと思う。
中也信仰は女子に多いが、つまりアレだ、新撰組信仰と同じだ。
信念に生きて・・ってのが、どうにも格好いいんだろうな。
脱線。
何で罪と罰にしても父と子にしても、名作なんだろうとは思う。
でも、ソ連という舞台を最大に生かしても、やっぱり読書としてはイマイチである。
アメリカはすちゃらかなくせに文学は良く出来ている・・悔しいな。
 
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読本とは、一冊を読みながら、どんどん他の本を並行するもんである。
そうそう、作家に失礼な読み方なのである。
自分で「コレはこういう本だ」という某か区分ができたら読み捨てる。
だからボクは本は読むが、感想とかそういうものを持たない。
古本屋や図書館で事足りるようになったから懐にも優しい。
いい時代だ。