MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

いじめが嫌いである

いつも、いじめが転がっており、路傍の石ほどの価値もなく珍しくもない。
特殊なことではなく、本当に珍しくない。
ボクが生まれて中年の今に至るまで、いじめは周囲にあり、手を伸ばせばあったし、ある。
押し付けられるいじめというのは稀で(いや、稀なのだ)、群集心理だとか匿名性心理を用いても
いじめている人間は自発的にいじめている。
三文記事を読んでも、学術論文を読んでも、言うことは同じ。
 
・ 大人社会の歪んだ構図が子供に影響している
・ 価値観の多様化が、いじめ、いじめられる各サイドに等質化を促しており、
  昔のような特徴的な差異は認められない。
・ 抜本的な教育改革が必要である。
 
何を難しいことを言っておる・・。
書いているオエラは「死ぬほどいじめられた経験が浅い」のである。
大人社会などというものは存在しない。観念や便宜上の区分であり、子供社会と大差ない。
価値観の多様化はその通りである。
ボクが幼い昔のように、「持たざるもの、持ちすぎるものがいじめられる」という特徴的差異は確かにない。
だからといって教育現場に何の責任もない。
教師がいじめに臆病なのは当然である。生徒にいじめられたくないのだ。怖いのだ。
教師が、のび太なのだから、ジャイアンみたいな親から逃げるしスネ夫みたいな生徒も怖いのだ。
 
のび太は、圧倒的に何も持たざるものであり、だからいじめられる。判りやすい。
ジャイアンから体格による暴力を取ったら、
実家の雑品屋と不細工な妹しか残らないので、そこで納得させようとする。ボクはしない。
スネ夫が一番悪い。持ちすぎているものは自制しないといけない。いじめに加担してはならない。
もっとスネ夫はいじめ抜かれなければならない。金を持ち出してどん底に落ちなければならない。
静香は要らない。いじめの構図に小学生のヌードは要らない。
もっとも、彼女もいじめられており、生傷の消毒と糊塗のための入浴であろうが。
 
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いじめる人間が悪い。
いじめは、なくならない。最後の一人になるまでいじめはなくならない。
誰もがいじめられるか、いじめるかの単純な論理にさらされ怯えている。
何も出来ない・しない人間という分類はない。いじめられるのは嫌だ。
予備軍としても「られるのは」嫌だ、そのくらいの純粋な危うい多数決の上で、中立にいるに過ぎない。
どちらかの二元論であって、中立をどうするか、教育がどうかなどという問題ではない。
いじめる人間がどこまでも悪い。それで結論なのだ。
例外を百億も並べても、簡単な結論には勝てない。例外は主役にはならないのだ。
ブログ友人の翌檜さんが「いじめという語をなくせ!犯罪である!」という要旨の記事を書いていた。
まったくその通りである。マスコミは表現の不具者だから、いつまでもいじめが使いやすいだけだ。
 
ボクはいじめられる人間だ。
チビだから・病弱だから・勉強ができるから・不潔だから・・理由には事欠かない。
いじめたかった。できるならいじめたかった。
上の理由だって「どちらかといえば」くらいの乱暴な区分で、幼いボクにも幼稚すぎた。
そんな理由でいじめられるなら、そんな理由でいじめたかった。
しかしボクには弟がいたから、おそらく、いや確実に弟を辛辣にいじめた。
もっとも、弟がいじめられていると聞くとすっ飛んでいった。自分がどうかなっても助けた。
家庭内のいじめと社会のいじめは構図が異なるのか?いや同じだ。
弱いと思われている人間を、強いと思いたい人間がいじめる、それだけだ。
弟は、遅く生まれたという理不尽極まる理由で、千回は殴られているはずだ。
その下の弟は、その倍だから二千回は殴られていることになる。
殴られないために年々大きくなり、180cmをとうに超え、殴られなくなると肥えだした。
人間は素晴らしく進化する。
コレを見たら弟は殴りに来る。いじめとはそうやってなくならない。
ボクが弟にいじめられず、殺されないのは理由がある。
弟に北海道に来る時間と飛行機代がないのだ。
兄はぜってぇ殺してやると、過去何年に何度も思ったかも知れないが、来ていない。
おそらく検査機のゲートに縦も横もつっかえたんだと思う。
脱線。すまん。
 
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いじめる人間には特徴があって、ない! いや、屁理屈じゃなくて、誰でも持っているからだ。
身の丈に合わないプライド、大きすぎる服みたいなものだ。
もっと・・・したい、もっと・・であれば、そういう実現可能な希望や不可能なIF願望が特徴といえば特徴だ。
可愛い子がいる、あぁなりたい、でもなれない。エステレベルじゃ勝てないどころか並べない。
改造手術しても万が一・・・となるといじめたい、か仲間になりたい。
仲間になるには難しい、いじめるにも向こうにも仲間がいる。で、徒党を組む。
もっと・・・したい、できない。できる環境がない。社会のせいにしたい。できない。
目立ちたい。目立つ才能がない。器量は悪くないが、目立つほどでもない。いじめられる理由もない。
いじめるには仲間もいない。何とかしたい・・・犯罪。
いじめられたという原点から、罪を犯すまでの間にまっすぐな直線は引けない。
生い立ちとか心理とか、そんなもの十人十色できっかけになっても理由にはならない。
犯罪者と精神障害者を一緒くたにするようなもので、それも犯罪者に好都合なだけだ。
精神障害者は、自分の存在に疑問を持っているから、外に出てヒトを殺めようなどという暴挙に出ない。
皆と同じく、もっと・・したいという願望はあるが、そこに手が届くと考えるほど自分を評価もできないのだ。
精神を病んでいるというのは人間が怖いということに近い。
自分を含めあらゆる世界に恐怖して、泣き出さないで震えている人間を、余り追い詰めるな。
 
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ボクは、いじめられる人間だからウツ人になったとは思っていない。
理由があってウツ人になったというのでは、ウツ人全てが救われない。
納得も出来ない、つかみどころのないものに足元から頭まで喰われている感覚。
誰でもなりえて、誰でもなりえない。こんなものに理由があってたまるか。
理由と原因があればとっくに療法ができている。判らないからウツ人は自らも救えないのだ。
ウツ人とそれ以外もまっすぐな直線では結べない、だから余計に生き難い。
いじめる人間に何を言っても無駄だ、そう思う。
罪と同じで、一度犯すと麻痺して際限がなくなり、自分勝手に自己防衛して罪の意識なんてない。
一度でも殴られたなら、何度でも殴られるあの「どうしようもない感覚」が判る。
反抗?できるわけがない。殴る人間は一回だけだぞ!?なんて思ってないのだ。
殴っても殴っても快楽が得られず、てめぇの拳がゆがんできても、殴ることしか頭にない。
こっちは、もう終わりかな、いつ終るかな、って思って何度逝き掛けたか・・というか死んでた。
このまま死んだらてめぇ犯罪者だぞって思っても、正義の味方よろしく何で上気させた顔をしているのだ!?
実際に「このまま死んだらてめぇ犯罪者だぞ」って人間を前にして犯罪者になっていく人間の多いこと。
殺すつもりはありませんでした?
バカモノ!当たり前だ。殺すつもりだったらもっと考えるだろう。
つもりはなかった、そのくらいの了見で殴っていたから、蹴っていたから、こっちは堪えてきたのだ。
いつか見てろよ?なんて思ってもいなかった。いじめられる人間には神も仏もないのだ。救いがないのだ。
戦争がなくなった?
バカモノ、その辺で、殴られているのを堪えて堪えてまた立ち上がっていくのがどこが戦争と違うのだ。
ボクはスーパーやら公園やらコンビニの前やら、本当にその辺に転がっているいじめが嫌いだ。
暴力が嫌いなのだ。大嫌いなのだ。
オッサンが「何してる?」と突っかかれば学生ごときのいじめは二つぐらいすぐ消せる。
(怖いよ、怖い!。だっていじめている人間にやめろ、と言うわけだもんね。)
見てみないフリでは、多数決に支配されてたあの頃と同じではないか。
子供心に、大人がきっと助けてくれる、救いなんてない中でそう思っていた。
神より仏より、風水や医師より、その辺の大人がなんとかしてくれれば・・!って心底に飢えていた。
今の自分を当時のボクが見たら『わ!こわいことしてる!バカやめろ』そう止めること疑いない。
でも暴力が嫌いだ。目の前の暴力さえなくなればいい、その程度だが、全く無いよりはいい。
バカだし。大人になってからのほうがバカになった気がするし。
あ、 
ボクには言葉の暴力がある?当たり前だ。いじめられた人間から言葉まで奪うな。
思うに、作家になりたいという人種。アレはいじめられたからこそなりたいのだと思う。逆か。どっちか。
・・・になりたい、という自分の願望がどでかくて容姿も何もイマイチで、でもいじめたい、今に見ていろ。
そうやって筆をとっている。でなければ腐れかかったその顔を新刊と一緒に披露する理由がない。
いじめられた人間も切ない拙い希望をもって筆をとる。そして何を書いているのか判らなくなる。
いじめにもっともな理由はない。
いじめる人間が悪いだけだ。
殴られたから殴り返す?・・・人生はあしたのジョーじゃないのだ。