神を信じない
物見(遊山)の塔冊子教会の同胞(とかいうらしい)、通称ジェホバさんがまたやってきたらしい。
妻が応対したらしく世間話から切り込むので追い返しがたいらしい。
子供さんが素晴らしい、とか奥様は素晴らしいとか褒めるらしい。
当たり前だ。我が家は神を信じていないからだ。
我が家にはアホとボケとカスは要るが、専ら神は必要ない。
売り出しのチラシは要るが、聖書は要らない。
十字架は背負っているから、これ以上要らない。
子供のしつけにも神は要らない。
神がしつけるとなると、みんな神の御子になってしまう。
無礼な!うちの子だ!
ボクは無神論者ではない。
きちんと洗礼を受けているからクリスチャンとなるのであろう。
どこぞの宗派の司祭とかいうものももらったが、要らない。使わない。
神様に感謝することはあるが、大抵はどうでもいいことである。
・ 公園のトイレに駆け込んで、しまった!と思ったら紙が残ってた
・ バスに乗り合わせた隣の女性が巨乳で、斜め上から「谷間」が見えた
・ チョコボールで銀が出た
・ 狙った鼻毛が一回で抜けた
・ 最近足が臭くなくなった
・ 10円なくしたら5円を2枚拾った
そういうとき「おぉ神様ナイス、アシスト」とは思う。
不細工な親が可愛い子供を連れているときは神を信じる。
ここで不細工な子供だったら、神の野郎、ちょっとの奇跡ぐらい振舞え、となる。
不細工な子供が可愛い親を連れているときも神を信じる。
コレは神の帳尻あわせだ。仕方ない。と思う。
先着100名の砂糖が買えたときは、コレはボクの努力で運も神も関係ない。
痩せた太ったも自分の不摂生と生活環境なので、関係ない。
ウツ人となったことも神は関係ない。
不幸があるたびに呪われては、神も神になった甲斐がない。
戦争はただの利害で人災でしかない。宗教の違いなどもってのほかだ。
災害も神は関係ない。そこまで神のせいにされてはカワイそうだ。
布教に来る連中を見ていると、やはり神は数人いると思う。
『あなたは原発の事故が予言されていたと信じますか』と聞かれると、こいつの神は・・ないな、と思う。
神は見えないらしいから、まず放射能のターゲットになると思う。
原発の燃料はウランとかプルートだから、神が燃やされているわけだ。
そりゃ罰も当たる。
原発の近くに好んで住んでいるわけではない。できたからといって移住できないだけだ。
神への信仰以前に罰が当たる。
そういう無分別な辺り、あぁ神はいないのだと思う。
子供が虐待され死ぬ。どこまでも親の責任で、役所行政はとばっちりだ。
そうかと思うと、親が殴られて死ぬ。
ウツ人はボロ布のような数字の扱いで死んでいく。
これだけ死んでいて、一向に救世主は生まれない
やはり、そういう無分別な辺り、あぁ神はいないのだと思う。
ボクは子供には、まず親を信じて欲しいと思う。
誰かのせいにしたかったら、親のせいにすれば良いと思う。
苦しいとき辛いとき、まず親を怨んでぶったたいて欲しいと思う。
嬉しいとき楽しいときは、言わなくても判るからいい。
他人のせい、あまつさえ会ったこともない神のせいにするような無責任な子には今のトコ育てていない。
ボクは神を信じているヒトを信じていたから、信じているに過ぎない。
神を信じているわけではないのだ。
ウツ人は自分を信じられないから、人知を超えた何か信じたくなるときは多い。
キリストは信仰を曲げなかった故に殺された。尊敬するが真似したくもない。
ウツ人は、生きるためなら何でも信じてみればいいのだ。
そして、違うな、と思ったらどんな高貴な神でも捨てればいい。
自分の命と、それ同等に大切なもの以外なら、何でも捨てていけばいいのだ。
既に知っているか・・・
精神を病んだ時点で、身体には神など必要なくなるのだ。
どんなに泣いても叫んでも、切っても絞めても、自分を助けるのは自分の意志だ。
神は、死にゆく人に対して、『心安らかに私の元に』などと、おっしゃるらしい。
バカモノ。
心が安らかだったら、神など必要としない。
心が雑巾のようになっても、なお必要としないのだ。
アーメン、と言って下痢も風邪も治ったことはないぞ。
奇跡などみんな自分で起こしているのだ。
もっと自分を褒めたたえろ。