孤独と関係する関係
森光子さんが死去していたこと、が報じられた。
亡くなっていたことを知らされてもなぁ。
ボクのような芸能界ウンチは、おそれおおくも既に亡くなっていたと思っていた。
松田聖子さんが既に死去しており、高性能なロボットが歌っていると今も思っている。
アニソンの帝王水木氏も故人だと思っており、新聞でコンサート広告を見ても追悼だと思っている。
ささきいさお氏は生きていれば200歳くらいで、
どんなにヤマトを歌っても、ボクは信じていないのである。
こういうのはボクの偏った思考回路のせいである。
ボクの中で結構な数の親戚が死んでいるが、皆ぜ存命だと思う。
すみません。
が、おそらく泉重千代さんは生きているだろう。
いまだにボクの中ではギネス記録は彼なのだ。
迷惑だ。
AKBと間違われるのが関の山である。
震災の復興は責任を持って続けてもらいたい。
通らぬ予算もある程度は通さねばならぬし、通してはならぬ法案は通してはならぬのである。
ダメだった、と決めるのに3年やそこらでは短かろう。
森光子さんと選挙。
コレで11月15日は終わってしまう感がある。
どんなに嘆いても故人は戻らないが、選挙はまだ何とかなる。
自民は勝てると思い、民主は負けると思っている。
そこに第三極が入るから混迷するという。
とんだデマだ。ソレも当たりそうなデマだ。
世論の操作に長けている政治やマスコミが流しそうなデマだ。
「もっと自分の意見で政党を選ばないと」ときっとどこかで誰かが言う。
デマだけの中で、何を決めてもその通りに決まらないから、皆して政治が嫌いなだけだ。
永田町はごった返し、どっちに風が良く吹くか、議員が指をくわえて風向きを見ているのだ。
ソレをただ指をくわえて見ている、多くの人たち。
関係ない、という思い込みだけで関係をなくす多くの人たち。
関係ない、で片がつくほど、世の中は単純ではない。
はじける90歳を目指すなら、森さんの生き様に無関係なはずがない。
税金も払わず、もらうものだけもらえるほど、この国は裕福ではない。
どこかで、他者に関係していないと、生きていることが無意味になるのだ。
そう思えてしまうのだ
無意味になると、無駄と無益に繋がって、自分の存在とは・・・なんて大それたことを考えるのだ。
大抵のことは関係ないで済まされる。
が、自分の生きることにしがみついていないと、生きていることから、はがされる。
生きていることは、寝ていればどうぞ、と与えられるほど楽ではないのだ。
死者は生者を拘束できない。
死んだばぁちゃんの文句に縛られていては何もできんのである。
しかし・・・
中曽根元総理がまだ生きていて政治を動かせる。現実。
こういうこと自体、凄いことだと思う。
政治とは、理念が生き続け、やがて腐敗する。
それでも腐臭を隠すために、若い政治家の身体を必要とする。
奇奇怪怪とはよく言ったものだ。