雑貨屋ばなれ
久しぶりに雑貨店に行った。
が、時間が遅く営業終了していた。
小さな雑貨店は18時くらいで閉まるので、大型のゴチャゴチャしたとこに行った。
が、閉まっていた。
雑貨屋というのは、おそらく健全に健康に生活しているヒトのものなのだろう。
そういう恵まれたヒトが、更に精神的余裕をモノに換価するとき雑貨という形になるのだろう。
店は昼食と夕食の間に見て、就寝前は雑貨で心を癒して寝る・・・というところか。
でなければ、18時や19時に閉店するのだから、勤め人やウツ人には行けない。
ボクは雑貨を「キレイなゴミ」と呼ぶ。
異論はあろうが、機能優先、量産主義の現実からいえばそうなのだ。
レトロな棚とか、古びた容器とか、ただの流木の何かとか。
使い方に工夫が必要で、自身まで侵されそうな存在感をもつモノ。
そういうモノの前で、癒しを感じるには、自身の余裕が必須である。
癒されるモノ、という言い方を雑誌で見るが、違う。
ソレは生活感のないオシャレなものでしかない。
雑貨とは、生活感のある自身と並んだときに生じる、時空を包含した緊張を優しく強いる。。
少しオシャレなものとは、緊張もなにもない。
「おしゃれかな?みたいな」という輪郭も存在もなく、ただのっぺりとしている。
今日行って、閉まっていた量販店は雑貨屋ではなく、少しオシャレなモノ屋であった。
ボクは滅多に行かない。
本当は、お話好きな女性店主が経営しているかわいい雑貨屋に行きたいのだが。
少し前に「雑貨フェア」で気分を害して以来、そういう正当な雑貨屋にはいっていない。
・・・
つまり、むかついたのだ!
娘がかわいいものが好きなので、フェアに行った。
雑貨作家なる人たちが集まって、各ブースで商売している。
あぁ、こういうヒトが創っているのだ・・・と見比べながら、高ぇ!などとつぶやきながら見て廻る。
そして、買いもしない客とのやり取りを楽しむのも作家であり雑貨屋であるのだ。
買わなくてもいいから、自分はこういうものが好きで、こういう風にモノと接している。
そういう姿勢が現れていれば、自然と不必要なモノたちは生命を帯びるのだ。
娘が手にしたのは「100円の指輪」だった。
100円を握ってずっと店主の前に立っていた娘と、それ以外の女の子達を前に、女店主は無視していた。
いや、他の作家がどうの、とか、あそこはずるい売り方をしているとか、ぼやいているのだ。
商売人なら、せめて客を喜べ。
子供たちから面倒くさそうに小銭を受け取って、女はまたぼやき始めた。
ボクはかちんときた。
「たかが100円だろうけど、もっと小さな客に対してまともな接客はないのか?」
女もカチンと来たらしい。
『ソレはうちの作家さんじゃなくて、良く知らないヒトのチャチなできあいの指輪です!?』
作家だってヒトだろうが?趣味の延長だろうが!?
人間国宝だって頭ぐらいは下げるぞ?
雑貨の敷居を下げるべく貴様が、何だその態度は!?
「あなたは何を作ってらっしゃるんですか?」
女は相当な値段をつけた、粘土の人形だとか、ステンドグラスを指した。
ソレが素敵だっただけに、勿体無かった。
娘が「かわいいね?」と言った。
女は『小遣いじゃ買えないよ?』と言った。
またむかついた。
「ブスでデブだから、かわいいものに憧れるんですか!?」と言ってしまった。
「消しゴム作家は、ナンシー関にならんといかんのか?」と隣の作家にも続けてしまった。
女どもは血相を変えた。
それから、雑貨屋に行かなくなっていた。
なぜ雑貨屋の女は、キレイなゴミを売っているくせに、尊大なのだ。
自分はなんだ!?小ギレイなブスじゃないか!?
常連はオシャレなデブじゃないか!?
そんな内輪で「かわいい♪」と褒めあっても、ボクには気持ち悪いのだ。
雑貨屋と言うのは、機能的にも値段的にも通常生活には全く縁がない。
雑貨などなくても生きていけるのだ。
雑貨を置くにはそれなりの空間演出が居る。
整頓された空間の計算された場所に雑貨は映える。
ボクの家に雑貨があっても、もえないゴミの日に一掃してしまいそうだ。
だから雑貨の放つ「余裕のある止まった時間」に手が届くように努力するのだ。
雑貨の本を見ると、オシャレな家とびっくりするほどの生活感のなさをバックにモデルが立っている。
オシャレなヒトはおしゃれに住むのだなぁと感激していると、違う。
小さな写真でページ下に家人が映され、ぎょっとする。
やっぱり小ギレイなブスなのだ。
以前、美人の家は汚い、と書いた。
ソレは自分を飾る以上に余裕がないからだと帰結した。
雑貨とおしゃれな家の住人は・・・。
せめて、独特なのは感性だけにして欲しいと思うのだ。