誕生日は何の日か
誕生日と言われてもピンと来ない。
いつも何となく過ぎてしまう。
言われなくては気付かない、平日以下の扱い。
そういうイベントにもならない日になった。
子供の頃は憶えていた。
もうどうでもいい。
歳をとるとはそういうことだと思う。
家族や親に言われて「あぁ、ありがとう」と言う。
何に対してありがとう、と言っているのか。
おめでとう、に対して答えているのか。
では、何がおめでとう、なのか。
30過ぎた女性に、おめでとうと言うとクソを食ったみたいな顔をする。
60過ぎた男性でも同じ。
「めでたくない」と口を揃える。
「後は死ぬだけだ」などと暴言を吐く。
若くして亡くなった方への畏敬は何もないらしい。
有名でも高名でもないヒトの誕生日はめでたくないのか?
そうだ。めでたくない。
では、なぜ祝うのか?
なぜ誕生日があるのか?
おそらく親への祝福だと思う。
子供は何も憶えていなくても、親は子の事を詳らかに憶えている。
何歳のときはこうだったとか、何歳からこうなったとか、実に深く憶えている。
憶えて欲しくないことの方が良く憶えている。
そうして、幼少期の気恥ずかしさに苦い顔をしていた子供が親になる。
やっぱり自分の子供の成長を詳細に記憶していく。
そういうつながりへの、おめでとうであり、ありがとうであり、誕生日なのだ。
一人で生まれて育ったようなことを言う。
勝手に育ってきたような態度をとる。
どんなに賢く振舞っても、親にはお見通しだ。
偉くなって出世しようが、ヒゲを生やそうが、金持ちになろうが関係ない。
親はいくつになっても、言うことは同じ。
・ ちゃんと食べているか
・ 何か困っていないか
・ 寒くないか、暑くないか
・ 元気か
ありがたいじゃないか!?
息子にとって母親は、一生のファンでありストーカーである。
娘にとって父親は、一生の敵か、うざったいおっかけである。
どんなに早く亡くなっていても、親の視線を感じることは多いはずだ。
誕生日が有る限り、親もその親も、自分を追いかけてくるのだ。
そういう駆け引きのない暑苦しい愛情がめでたくないはずはない。
つまりは、誕生日なんて自分のためではないのだ。
親が祝いたい日であり、子が感謝する日である。
間違ってもプレゼントを要求する日ではない。
何もなかったからといって、不満に感じるのは、恵まれすぎているが故の厚顔である。
ボクがそうやって親に言うと「ふーん・・・」と、何を偉そうにと言う。
母親は『わたしなら何か美味しいものが欲しい』と言う。
父親は『オレは馬刺しが食べたい』とか言う。
アホか。
一年中美味いものを食べて、誕生日にまだ何か食べるのか?食べすぎだ。
親に感謝しろ、と言ってみる。
母親は『両親の分まで食べなくちゃ』と言う。
父親は『親は特に何もくれなかった』とか言う。
・・・。
勝手に食べろ。
『ますますブタになっちゃうね?』と母親は言う。
ブタに失礼だ。
ブタの体脂肪率は高くても15%だ!
みんなブタにも劣るのだ。
太ったブタより、痩せたソクラテス。
ソクラテスだってブタより食べていたに決まっているのだ。
賢人だから賢いとは限らない。
凡人の誕生日にこそ意義がある・・・かも知れない。