続~男女の心の折れやすさ
ひと月ぶりの続編である。
・・・
どこまで書いたか。
男と女は思考の方法が違う。
男はひとつのことしかできない、とか話を聞けない、とか言われる。
女は、ながら仕事、同時に複数作業を並行して行える、とも言われる。
これを女性権者は女性の優勢と捉え、封建的な男性は「女の小賢しさ」と捉えた。
不毛な言い争いは今でも、職場や家庭で続いている。
「おい、アレどこ行った?」
『アレって何よ?自分で探せば?』
「オレは今新聞を読んでいるから手が離せないんだ」
『私だってテレビ見てんのよ!?アレね・・ハイハイ。あ、ホラいいところ見られなかったぁ!』
「コピーとってくれ。」
『(コピーくらい自分でとれ!)・・ハイ、何部ですか?』
「え?ナンだって?」
『何枚いるんですか?(聞いとけよ!)』
「5部って言わなかったっけ?」
『(聞いてません)ハイ、5部ですね?後でやっときます』
数十秒たつ
「コピーまだ?」
『そんなに急ぐんですか?言って下さいよ』
デートしていて映画を観ていても、男は女が気になり、映画の内容は虫食いに抜け落ちている。
女はしっかり観て、更に男も見ている。映画の内容と男の癖や下心の機微まで憶えている。
女は怖い、男は使えない。
これは脳のせいで、男女の性差による優劣ではない、というのが結論。
心理学的アプローチでは長らく行動差が曖昧というか不明だった。
脳神経の分野では早くから知られていたが、他と連携がなかったのでやはり曖昧だった。
「男女の行動差や思考の振幅は、脳梁(のうりょう)の神経束による先天的なもの」
これが最近、挙ってニュースや話題になった。
今更な・・ところと、そうだったのか!?というところが邂逅を得たのである。
脳梁は左脳と右脳と結ぶ、ぶっとい神経束で、膨大な情報が東から西から行き交う「橋」である。
自分の住む土地の大きな橋を思い浮かべると良い。
「あの橋がなかったら困る」という橋で、だから意味もなくいつも改修しているあの橋と同じである。
そして、左脳は論理理性を司り、右脳は情感本性を司る。
今まで、ガリ勉が右脳を鍛えたり、行動障害に対し左脳を鍛えるという話になっていた。
大人になって絵を描くとか、子供のうちに早どり学業を進めるという話も盛り上がっていた。
根拠ナシとは言わないが無意味だったのである。
脳梁の太さは生まれながらに決定しており、
更に男女については動物である限りにおいても進化過程を考慮しても決定されている。らしい。
男は細く、女は太い。
ただ、これは優劣ではない。
女の体型の太さや、男の男自身の細さとは全く無関係である。
(こちらには優劣はあろうが・・)
女が並行して、ながら仕事ができるのは脳梁の太さによる、ただそれだけである。
男がひとつのことをしていると、他が疎かになるのも脳梁の細さによる、ただそれだけである。
(画像は恋人同士でも夫婦でもありません)
男がコピーをとってきて?と頼むのは、
ひとつの作業が続いており、それ深く長く計画されており中断するとわけがわからなくなるからだ。
女がハイハイとコピーをとれるのは、並行した作業が断続しているからで、
目や耳の情報と、仕事としての作業が同じ橋で立ち話しているからだ。
男は子供みたいな目標を持っており、達成までも子供じみてアホのように追いかける。
女は大人であり、身近な情報を取り入れつつ現実に適応していくのである。
逆説的だが、結婚というものが、男の通過点であるのに、女には最終点になりやすいのも同じ理由。
子育てに差異があるのも全く同じ理由。
男は結婚して「女が変わった」と言うが、女は『男がそう思っているだけ』と言う。
考え方が決定的に違うからだ。
男は全体として結婚を理解できないが、女は全体として捉えており、見ている景色が変わる。
目が違うのだから、言うことも行動も変わる。
男にはソレがナンなのか理解できない。理解する思考回路がないか細いのだ。
子供が生まれると、男は「女とは意識できなくなった」と言い、女は『男は関心がなさすぎ』と言う。
考え方が違うし、結婚と出産を経て、女は全く別物になるのである。
女は野性的になり(女は本来、本能的なのだ)、より近視眼的な言動になる。
良く見せようという思考より、変に見られたくない、という志向も強くなる。
結婚していない、したことがないヒトには全く判らない話だ。
同様に、出産していない、したことがないヒトにも全く判らない話だ。
珍しく本題を延ばしてまた続く・・。
国会みたいになってきてすみません。