MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

ははのひ

毎年必ず来る母の日。

カーネーションは、生きている母には要らない。
コレは良くある話で、エピソードが商業的に飛躍したもの。
ある、母を亡くした少女が、母の葬儀に参列したヒトに「母の面影を偲んで下さい」と花を配った。
それがカーネーション。白かったという説もあるが、確証はない。
母を想う気持ちにうたれた参列者は、翌年からカーネーションを持ち寄ったという。

カーネーションは要らない。
ボクは、最近は母にプレゼントすら渡せずにいる。
何か買うにも金が要り、送るにも送料がかかる。
何か送ると、必ず言われる。
『そんなお金は、家族に使ってあげなさい』
そう母は言う。
その通りだとは思う。
しかし・・・
このままでは、カネを使った親孝行はできそうにない。
100円や1,000円が惜しい歳ではないのだ。
そして、カネではなく気持ちだ、そういう理屈も親心というものも、少しはわかる。
しかし・・・
会いにいける距離でもなく、航空券を送って「いつでも来て」と言える甲斐性でもない。
遠くに離れて、孫の顔を毎日だって見たいだろう。
一年に一度くらいは会いに行く。顔を見せる。
そんなことすらできず。
いつしか、行けないことに理由を探さなくなった。


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母は、たまに電話があれば良いと言う。
差し当たり、生きて元気なら良いと言う。
ゼロを基準にすれば、そういう幸せもありでしょうと言う。
子に先立たれた母、子の成長を待たずに逝った母・・
白衣をまとって医療の現場に長かった母には、子が生きて孫がいるという意味が深いのだ。
それでも・・
ボクはゼロでも良いが、母はゼロに立っていて欲しくないのだ。
ひどいエゴだ。
他人の幸せより、差し当たり身内の幸せなのだ。
親を見て育ち、親から離れ、ときには忘れ。
自分も親になり、また親を振り返り、孫を通して、血が縁になっていく。
そうやって「血縁」が生まれて、育って、できていく。
ヒトと歴史は同じだ。


地酒を幾つか買った。
一升など無理。
四合瓶も無理。
お神酒くらいの量。
送料の方が高いくらい。
恥ずかしくて、送ったから!と連絡もできず。
きっとお礼の電話にも出ないと思う。

親を看取れば親孝行。つまり長生きしろということ。
親より先なら、最大の親不孝。
そんな乱暴な基準からは、できるだけ遠くにありたい。
小さな孝行を、できうる限り積み重ねたい。