MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

子ども

声をかけるのが好きだ。
おそらくボクに限らず、なんでも擬人化する病気だろう。
 
花なら、よく咲いねた、とかキレイだね、とかける。
動物なら、元気だね、とか、嬉しいね、とかける。
 
人への声のかけ方には気を使うが、ボクは大して気を使っていない。
気を使った挙句に、言ってはならないひとことを言いそうな気がする。
言ってしまったら、すみません、と謝る。
ボクは気が小さいのだ。
 
子どもたちには何か伝えられれば良いと思い、話しすぎるくらい話す。
が、何も伝えない方が、子ども達のためになると言う人も多い。
子どもの自立心が摘まれるとか、子ども自ら考えなくなるとか。
じゃかぁしい!と思う。
子育ては理屈じゃないのだ。
子育ては、大人が教授する理論やモノじゃないのだ。
善悪の判断くらい、きちんと教えないと、子どもは戸惑うと思う。
良いと悪いは、相対的だ、そういうことも教えないと、子どもはみんな独善的になる。
 
自分さえ良ければいいと思ったらダメだ、と娘には言う。
自分が関係なければ誰が何をされても、何をしても良い、そう考えたら人じゃないと息子にも言う。
 
とんでもないことを言っていると自分でも思う。
自分ひとり、まともに守れないのが人生というものである。
人を押しのけても、自分や自分の主張を守り通すのが、結局、一番利口な処世術だと思う。
人を馬鹿にして、生きる。
あるいは、自分を馬鹿にして生きる。
これが楽なのだ。
文句しか言わない。あるいは、文句を言わない。
どっちかを守ってしまえば世の中なんて、二分化できる。
ウツ人には、これさえできれば良いとすら思っている。
 
ボクにはできないのだ。
自分に一番文句があるのは自分であり、他人に何も言えないのも自分だと知っている。
ボクには人生なんて偉そうに語ることすらできない。
子どもに伝えるにも、中途半端な経験しかないからだ。
なぜ勉強するのか。
なぜ罪を犯すのか。
なぜそれが罪なのか。
なぜ生きるのか。
死は悪いのか。
・・・・・・
自分の答えは持っているが、それを大人として伝えることは難しい。
子どもの頃から、こう思ってきて、こうなった、そういう伝え方しかできない。
 
子どもが泣いているからと、泣くなとは言えない。
泣いている本人は、周りの世界そっちのけで泣いている。
こっちの世界の理屈は通らない。
大人の都合、と言えばラクだが、大人がみんな大人とは限らない。
子どもからしたら、大人はずっと大人であるから、大人しく聞くだろう。
ただ、子どもの頃を忘れたら、大人は大人ではなくなると思う。
ボクには「いつから大人になったか」という、時、があるが、個人差はある。
大人になるエピソードは、人それぞれ。
何も知らずに大人になるほうが多い。
手を出したら、児童なんとか法でつかまった・・・子どもだったのか、
そうやって自分を知る「大人」もいる。
 
 
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幼かった近所の子どもが成長して、勉強の愚痴から、言うことが変わってきた。
恋がどうの、とか、カネがどうのとか言うようになってきた。
こういうことを聞かれたら、ボクは子どもとして扱わない。
恋もカネも、大人だって判らないものなのだ。
恋を実らせた大人なんて少ないだろうし、
ましてカネに満足した大人に至っては、聞いたことがない。
 
子供の頃は、難しいことは大人がやってくれると思っていた。
最近は、子供の立場になると、大人の方が簡単だと思うようになった。
良いか悪いかは、大人は多数決なのだ。
ボクは多数決が嫌いだ。
まだまだ、大人ではないのだろう。
大人なんだが。