MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

ひといかし~人生かし

人殺しの話は報道が大きいわりに、記憶に残らない。
人生かし(人救い)の話は口伝でも、ずっと記憶に残る。
おそらく、人殺しは、どこかで、自分はしないけど状況によってはするかもしれない、そう云う親近感がある。
大したことがない、と判断して、理由ばかりに気が行き、しっかりと憶えないのだろう。
反して人生かしは、自分もそうでありたいけど、決してできない、なれないと云う、確固とした隔たりがある。
人生かしが、美談となるほど背けたくなるのは、同一化できない、親近すら持ち得ない自分への嫉妬である。
 
 
横浜線の人生かしの話である。
 
線路内に残されたお年寄りを助けるため、停車中の車から降りた女性。
電車がすぐ来ることを周囲は知って何もできない中、制止する父親を振り切って、踏み切りの中に入った女性。
お年寄りは助かり、女性はなくなった。
 
生かされたお年寄りは、感謝しても仕切れず、来世を担保に入れなければならないだろう。
冗談だ。
大病してもすぐに治り、生かされたこと、もらった命の凄さに気付くだろう。
天寿を全うして欲しい。
 
のこされた父親のことは言葉にならない。
ボクはウツ人だから、「ニュースで亡くなった方を知ると代わりたい」などとほざく。
人生かしについては、何ら代われない。
代わりたいのは父親その人、代替は誰もできないのだ。
 
ボクは見ていないが、妻が憤っていた。
父親にマイクを突きつける取材陣。
踏み切り付近にいたヒトにマイクを突きつける取材陣。
献花するヒトにマイクを突きつける取材陣。
 
『目の前で、娘が死んだ気分はいかがですか?目の前で、救えなかった気分はいかがですか!?』
 
『あなた、非情停止ボタンを押す前に、何で踏み切りに入らなかったんですか!?』
 
『わざわざ花を買って・・それは偽善ですよね!?』
 
人生かしが起こる。
コレは奇跡じゃなくヒトの行動である。
ヒトがヒトを越えうることの何よりの証だ。
踏み切りの中に入れないのがヒトだ。
死ぬかもしれないなら入れないだろう。
ボタンを押せれば満点だ。
献花。素晴らしいじゃないか。
 
 
そして、くだらない取材のお陰で、生かされたヒトが生きにくくなるのも、コレもヒトの業だ。
昔の人生かしの話が残っているのは、伝達方法が口伝しかなかったkらだろう。
今は、美談を作るために、伝達方法のためだけにに醜い取材をしまくる。
 
 
『あのヒトは助かったよ・・と娘に伝えたい。』
 
 
娘と代わってやりたかったなんて、言うわけがないのだ。
それは、娘さんが死ぬ気で助けに行ったことの肯定である。
娘さんはきっと自分の生死を考えてはいなかった。そういう行動だ。