MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

少年を大人が裁くな

川崎の事件で、一人の快活な少年が亡くなった。
これは殺人であり、リンチでも苛めでもない。
加害者は、こんごの法制度の中で、嘔吐するほどに知らされるだろう。
遺族には、言葉がない。
加害者とその家族は、おそらく「社会的制裁」の名の下、想像を超えた隔離を受けるだろう。
起きてしまってからでは遅いこと。
起きてしまってから起こり始めること。

またぞろ少年法も改正の論議が出るだろう。
少年とは未成年、という頃から既に議論は始まっていた。
2000年改正で、16歳までだった刑事罰が14歳までとなったのを機に、一気に改正が進んだ。
政府の見解から、識者の意見、委員会での審議、そして法改正。
一部の例外のために、全体法を改正することは危険だ。
少年が犯す罪は、少年法で裁き「少年を更生させる」ことにある。
「罪を徹底して裁く」ことは、少年法の目的ではないのだ。
しかし、今回はきっと少年法を鑑みながらも、刑事処分だろう。
いわゆる「逆送致」と云う措置だ。
この措置を取ることで、大人と同様の審査を経て処分されることになる。
17歳も18歳も、もう大人と同じだ。
ここが大人の言い分だ。
現場では、守るべき少年の可塑性(立ち直る可能性)を無視していると心配され続けていた。

殺すつもりではなかった・・
死ぬとは思わなかった・・
これは他人事にできない感情だ。
誰だって憎しみ、憎み切る。
そこを踏みとどまれないのが少年だ。
大人でも、起きてしまってから苦しむものを、少年に押し付けるのは酷だ。
しかし、これも大人の言い分だ。
確かに子供は荒んでいる。
しかし、荒んでいるからと、何をしても良いという法はない。

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改正の経緯を見ても、刑事処分相当は仕方がない。
一人はもう帰ってこないのだ。
かといって、加害者の未来も奪って良いのか、という議論になる。
ウツ人でも、誰でも、子を持つ親なら考えるだろう。
うちの子には被害者になって欲しくない。
それは身勝手と云うものだ。
被害者ではなく、加害者になったとき、どこのどこまで責任を果たせるのか。
土下座しても、全財産を投げうっても、到底足りない責任と云うものがある。
そこを直視できるのか。
子供の更生を信じて待っていられるのか。

17歳や18歳は子供ではない。
かといって、大人でもない。
ボクなど25歳の頃でも、まだガキだったと思う。
感情論ではなく「自分が裁かれるとしたら」と云う視座が、報道にはどうも抜けている。

『悪いものは悪いと教えなければなりません。厳しい処分は仕方がないです』

それは、自分の子にも言えるのか?
誰の子供にも言えるのか?

若者の犯罪が起こると、すぐに親が連座させられる。
子供は捜査機関に隔離されるのを良いことに、親や親戚を詰問する。
その人格も否定する。
多数決の下で、皆が急に偉くなってしまうのだ。
○の親自殺。
なんと多いことか。
ウツ人として、悲しみさえ通り越す。
そうやって終息していく事件。
そうやって、片付けられていく書類の束。
扱うべきは、少年という人間である。
親に愛された子供である。

この手の事件は、刑事処分で死刑相当でも死刑にはできない。
少年法制度が守ってきた砦である。
少年法は、親元法とも呼ばれる。
まともな大人が少ない、凍えた制度の中で、唯一温もりのある親元の残滓だろう。