MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

静かな恐怖

善悪が本当に絶対なら、どんなに生きやすいかと思う。
善をしていれば、何の反対も批判も受けずにいられる。

正面から本音や批判を言うと、悪にされることが多い。
悪ではないが、善ではない、そういうレッテルは生きて行く上では厳しい。
だから、なるべく善悪の判断を保留して、曖昧に生きて行く方が好まれる。
誰かが居て、どうでもいい関係の人である。
そう云う人でも、正面からは批判をしない。できない。
正面対決。
そうはならなくても、悪く思われる・・か・・良く思われないかも知れない。
できれば嫌われたくないし、どちらかと言えば好かれたい。
立ち位置をできるだけ、相手から見えないようにする。
処世術とか云う、言い訳だ。
 全く人間はわがままだ。

だから、関心があっても、相手に気まずいだろうことを聞かない。
「あなたをこう言う人が居る」とか、
「こういう噂がある」とか、濾過した聞き方になる。
自分はひとまず安全なところに置くわけだ。

そういう、卑怯な立ち位置からは、敵も味方も生まれない。
差し障りのない良い人、そう思われて、普通と云う名前の大きなカゴに投げ入れられる。

嫌われたくなくて、一生懸命良い人を演じてきたのに、素敵な異性から言われる。
「良い人ですね・・」
良い人は、無害であるから、無益なのだ。
有害有益な変人が好かれるのは、残念だがそういうことだ。
副作用のない特効薬が皆無なのと似ている。

そう判っていても、良い人をやめられない。
良い人でいることに疲れている。
そういう人が一番怖い。

安全を保障されないと、強がれない方がいる。
自分ではない、特定されない、そういう状態になると、強く批判したり、酷い事を言っても、
自分は「なんとなく正義」の側に居るのではないか、と勘違いしたまま、それを確信するようになる。
多数こそ正義。
そう信じるようになっていく。
宗教とか洗脳とかと一緒だが、本人は気付かない。

いじめとかパワハラとか。
会社や友人やご近所での下らない上下関係とか。

警官隊と反抗派がやりあっていると、必ず後ろから石を投げる人がいる。
誰かが叩かれていると、なんの関係もないのに、とりあえず叩きたいからと並ぶ人もいる。

怖いのは、正面から怒るヒトではない。
多数決で善悪を決める同じ笑顔の良いヒトだ。
一番恐怖するのは、どんなに否定しても、そういうヒトに自分も含まれていると云う点だ。
正確には、含まれていく、のだ。