MelancholyDampirの日記

ウツな人の独り言

こんな家や部屋に住みたい!

ヤホーの「お題」にはいつも笑わされる。
悲惨惨憺を遥かに超える状況下で何を求めているのか。
苦笑いするよりない。
そして、だからこそ、このお題を選んだわけである。
 
・ 地震に強い家
・ 火災に強い家
・ 逃げやすい家
 
こういうのは住宅供給の全くのリップサービスであって現実や事実とは異なる。
新旧問わず、近年の日本家屋というのは崩れ去るのを前提として作られている。
なぜなら100年もの経過に耐える家を作っていたら住宅の需要が頭打ちになるからである。
祖父が住み、その祖父も住んでいた、そして子が住み、孫に孫が出来ても家は変わらない。
そういう理想(いや、可能な事実)を離れて、いつかは改築新築が必要な耐性しか与えてこなかった。
オランダをはじめとするベネルクス、北欧に代表される長寿住宅を避けてきたのである。
3千万という破格を出して、30年しか持たない。
自動車でもありえない常識を、現在に至るまで頑なに守ったのである。
抱腹絶倒である。
 
少子高齢化が予測されたとき、欠陥住宅が問題になったとき、転機はいくらでもあった。
地震が家屋の倒壊に直結し、火災を呼び、大災害となる・・・。
なぜ?とは誰も言わない。
それは当然である。
予測できる天災は天災ではないのである。
人災でしかない。
 
妻の話だと、こんな時にも「ジェホヴァの証人」がやってきたらしい。
狙いはボクであることは知っている。
ボクがウツ人であることを、いい加減に察知しているようだ。
妻がそういう話を断れない性格であることはとっくに「商売柄」知っているのであろう。
 
 
地震は既に予言されていたことをご存知ですか?』
 
妻は絶句したらしい。
聞いたボクも鼻白んだ。
つまりは、この地震はジェホヴァによる人災であると丁寧に説いておられるわけだ。
予言というものは、後の解釈でどうにでもなるから予言でありペテンなのだ。
ギルデマス=ノルト=ノストラダムスとかいうヒトは、ただの不平屋だったとボクは思う。
毎日を、懸命に生きることに捧げていれば、小さな幸せを喜ぶものならば、予言などしない。
未来の不幸への警告など、現在に不満がある、ヒトの傲慢であり、ただの寂しがりである。
予言は「だいたい誰にも当てはまりそうなこと」を好んで選ぶ。
 
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・ あなたたちは近いうちに大きな不幸を迎える 
・ ソレを避ける方法はない
・ しかし、協力して道を守れば新たな道が示される
・ 道に外れたものは怒りを買う
 
最初の二つが誘導であり、後の二つはただの商業主義である。
予言ではない。
 
・ 明日は晴れでしょう、そうでなければ晴れではなく、もしかして何か降るでしょう
 
こういうのが天気予報という予言である。
このレベルだと誰も信じないから、大雨とか台風とかを混ぜる。
なるべく「当たらずとも遠からず」にしたいから、天気図とか過去の事実をもってくる。
ただの「統計」であり予報でもなんでもない。
 
占いの類も「統計」である。
星の軌道、天文学とか数の必然性、数秘学を基礎に、統計学を「それっぽく」する。
そういう作業が予言めいてきて、ヒトの心に入り込む。
今日の新聞では前面が地震を伝えていた。
占い欄を読むのが日課である。
ボクは誕生日を毎年変える(憶えていられない)ので、今年のソコを読む。
 
たとえ貧しくともあなたの優しさが周囲を包む
 
余計なお世話である。
優しいとだけ言えば信じるものを、たとえ・・、でプッチン、星一徹である。
「それっぽく」なると統計からも離れるので、うるせぇ、で片付けられる。
占いで「最高の強運日」であったヒトが全て生きていらる可能性はない。
占いなど、ちょっとあれば見るかな、ぐらいの存在である。
試食コーナーのキムチぐらいである。
だから人気がある。
だからといって、占いや予言で、「判らないからあなたの責任で何とかしなさい」とされると腹が立つ。
ボクが天邪鬼なのか・・奇妙で勝手なものである。
 
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首相や官房長官の会見に立腹しているヒトが多いようだ。
 
・ 落ち着いて行動してください
・ 無理に帰宅せず水や食料を確保して安全を優先して下さい
・ 近所同士助け合って下さい
 
こういう風な内容である。
無論、今この一瞬を苦しんでいる多くのヒトに対する信頼は裏切ったかもしれない。
が、ボクは良く練った「ペーパー」であったと思う。
まずは国民の生命、それに徹して、決してアレもコレもする、と風呂敷を広げなかったからである。
大災害や戦争といった危機的窮地でもっとも恐れられて、そして、おこしてならないのがパニックである。
群集心理というのがある。
同じ境遇での不平や不満、そして不安を共有した匿名性は、ときに災害をも遥かに超える。
自分と判らなければいい!
そうと知った群集が、警官や軍隊をつぶし、店に殺到する。子供を置き去り、女を押し倒す・・。
過激な表現ではない。
歴史という事実を伝えているだけである。
ソレを徹底して忌避し唾棄すべきために、首相たちは言葉を選んだだけである。
どんなに罵倒されようが、何もしない、できないクニではない。
だからこそ、国民を信じたのである。
被災地の多くの場所で、一般人が、奇跡を越えた行動に出ていることと思う。
いや、ボクは確信する。
 
荒れ狂う海に船を出す漁師。暴挙ではない。 命と同じほどに大切なモノが船であっただけだ。
津波現場に戻ろうとする老人。狂気ではない。 ソコにあった大切なものをせめてその目で見たいだけだ。
子を探す親。親を探す子。 命を懸けてソレを制止するヒト。 誰もが同じ命を守ろうとしている。
手に届く命、ただそれだけを信じて、ヒトがヒトを超えるのだ。
 
予言や予報など、事実の前にはどうでもいいのだ。
しばらくして、傷跡を抑えた世の中が歩き出す頃、きっと言う愚者がいるだろう。
なぜ予測できなかったのかと。
予測できないから天災なのだ。
ソレを越えてくるから、ヒトはヒトであるのだ。
一人一人ができることは全てするだろう。
信じるとか、そういうことではない、ボクは確信している。
何もできない、しないものは、決して異を唱えてはならない。
命に優先するものはない。 これからもそうである。
 
交通機関の死に切った道路を、線路を、今も歩いているヒトが多い。
それは暴挙ではなく狂気でもない。
帰るべき家、帰りたい家、誰かを待つ家、誰かを探す家。 
一目見れば救われる、そういう「家」があまりにも多く、そして壊された「家も」また、あまりにも多いのだ。
安穏としたところから見ている、観客としてのヒトには、「黙々と歩くヒト」が理解できないかもしれない。
見える事実は事実でしかない。個々人は、どこまでもヒトであるだけだ。
家があるかどうか、そんなこと考えて歩いているヒトはいない。
どうにかなりそうな自分を納得させるため、
しっかりと生きる気持ちを確認するため、
ヒトは家に帰るのだ。
 
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ガレキでも石くれでもいいのだ。
そこに、自分がいた、帰ってきた、心が帰る「ともし火」が見たいだけだ。
 
水が引いた後の、残酷なほどの数の家屋が、これから捨て去られていくだろう。
が、捨てられていくのはただの材木や金物ではないのだ。
かつては、ヒトを待っていた家であり、ヒトを守ってきた家なのである。
そして、多くのヒトには、大切なヒトの命を奪った凶器でもある。
 
確信している。
これからの全ての家が、決してヒトを裏切らない家であることを。
こんな家に部屋に・・・そんな甘っちょろい夢ではないことを。
帰れる家・・当たり前ではない事実、そこにもっともっと感謝するヒトでありたい。